(五)
牧田先生は呟やくように『仏法の流布の形態に対する釈迦の予言がぴったりと当たっている。此の予言の的中
から考えると、末法という時は、釈迦の仏法が役立たない事も、はっきり認識せにゃならん。そして末法の仏が
日蓮大聖人であることも承認しなければならない事になってしまう。そうなれば日蓮大聖人の弘安二年十月十二
日の大御本尊があらせられる、日蓮正宗の信者になる以外にはない』
巌さんは、先生の呟やく様な声を耳をすまして聞き入った。十年来教えを受けて、三ヵ月会わなければ先生の
思想が非常に発展して若竹の様に伸びて来ているのを毎度体験している。解ったようで解らない、先生の今の言
葉を巌さんは必然的に戸惑った。
巌さんは三年来、いな昔をいえば十年以前から、キリスト教の研究者である。そして、今巌さんは『神』が実
在するか、しないかの問題に悩み切っているのである。若し牧田先生が、日蓮正宗とか本尊とかいうような物を
やり出せば、自分もきっと引っぱられるに違いない。何処にあるやら解らぬ日蓮正宗という、ちっぽけな教団に
そんなすごい事があるはずが無い。いや、そんなちっぽけな教団で研究するなんて事は、葭(あし)の髄(ずい)から天井を覗(のぞ)く
の諺通り、葭の髄なんかいらないもんだ。宇宙の真理、世界の哲理を此の二つの目ではっきり見つめたいのだ。
何となしに妙な予感にかられながら、
『先生! 先生は日蓮正宗っていうものをやるんですか?』
『うん、論理整然、しかも未だわしがぶつかった事のない深奥の哲学・日蓮大聖人の津波の様な大気魄、どうも
わしは信じなくてはならんと思っている』
巌さんは困ったという様な顔をして、
『先生やめたらどうです。又先生はこってしまうから弟子は困ります。学説の発表も、きっと途中でやめるかも
知れませんよ』
『学説は学説。信仰は信仰。哲学は哲学。どうもわしは心が引かれてならない。明日もう一度、三谷素啓さんに
会って、今一度伺ってからわしの不審の点が晴れ次第、明日にでも信仰しようかと思う』
巌さんはやれやれと思って、どうにもならん、何とかして止めなくては学説だけでも手を焼いているのに、こ
れから毎日先生の知った事、考えた事を、つめ込まれるので悲鳴ものだと思った。そして頓狂な声を出して、
『まあまあ待って下さい。もう少しの間待てませんか、そう急がなくても逃げてしまう物でもあるまいし、ゆっ
くり考えたらどうですか』
巌さんの後の言葉は嘆願する様な調子であった。
牧田先生はニッコリ笑って愛弟子をいたわるような顔をして、
『巌君、僕は論理の誤謬(ごびゆう)には気が付く力を持っているから安心し給え』
其の時丁度、目白行の省線が入って来たので、牧田先生は、すべり込む様にガランとした電車の中へ入られた。
巌さんは省線の動く迄、先生と顔を見合わせておって、省線が走り出すや父親と永遠の別れをするが如き、淋し
さを感じ、じっと目をみつめていた。
(六)
芝公園の木造の二階建築は夜の暗やみにとざされながらも、その巨大な姿を薄ぼんやりと見せていた。二階の
一間だけが赤々と電気がともされている。
ここは東京市教育局の視学課長の部屋である。三間に二間の課長室の窓ぎわに入口に向かってドッシリと大き
なテーブルがあって、どっかりと安楽椅子に坐った視学課長はテーブルに肘を突いて皆の顔を見渡していた。四
十代の働き盛り、精悍な顔つきである。さすが藤中教育局長の懐刀であり、市内三千の教員の元締めで教育界の
親分としての貫録は充分である。前にいるのは視学や区会議員や二人の小学校長で合わせて八名である。松原区
会議長がその中にまじっている。
『課長、牧田は手に負えぬぞ、あいつの首を取ったら税金を挙げにゃならぬ。首にするといい出してから三年も
引っぱられて此方の面目が立たん』
区費で酒を飲んでいるのか、酒焼けした顔でぶっきりといい出した。ねずみの様な顔をした視学の吉田が
『簡単に引っこぬけると思った首が、なかなか根が張っていてやり切れん。課長! 親分の顔が丸潰れという所
ですよ』
お世辞のようにけしかけている。
森本という区会議員は、
『がん首ばかり揃えて一人の校長の首を切れぬとあっては他の区に対して芝区の笑いものだ。どうしてもとろう
じゃないか』
『それがさ』
青白い顔をした愛宕(あたご)の小学校長が、課長の顔を見い見い言い出した。
『巌という恐ろしく悪い奴が牧田についているんだ。あいつは塾なんか開いて此方(こつち)の手に及ばないんだが。鴨の
様に突飛もない所へ顔を出してくるらしい。あいつを何とかする方法がないものか』
視学課長は愛宕の方をむいて、
『その野郎だよ、局長がどこで飲んでいるとか、身許はどうだなんという、とんでもない調査を興信所へたのん
だよ。局長には叱られる興信所には金を取られる。僕も散々(さんざん)だったよ』
区会議長の藤原が、
『課長、うっかりやれんというのはその野郎の仕わざなんだ。民生党の領袖台湾総督の太田政弘へつながりを
つけて、太田政弘の子分の吉原が、東京府の内務部長をしているのを良い事にして、此方(こちら)から首切りの辞令を出
すと東京府知事でおさえる事にしてある。弱ったもんだよ』
広田視学課長が藤原区会議長の顔をシゲシゲ見て、
『それ所じゃないんですよ。政友会総裁の犬養木堂を抱え込んで、妙な教育学説に巻頭言を書かせたり、政友会
の頭株や院外団を教育局へよこすのでやり切れないんだ。その度に僕はこういってやるんですよ。牧田はいい男
です。牧田君の下に厳という煮ても焼いても食えない大悪人がついているので、牧田君をあやまらせるのですよ。
あいつさえついていなければ、牧田君に勤めていてもらうんですがね。こういうと大抵引っ込むのは引っ込むが、
何処からどんな鉄砲がくるかわからないのでやり切れませんよ』
といって冷いお茶をゴクリと飲んだ。
(七)
その時、扉をあけて入って来た丸い黒い顔をした中肉中背の紳士がある。藤原区会議長はその人を見るや否や、
『神崎ドクター、往診の帰りかね、ここには病人はおりませんよ』と冗談まじりに声をかけた。
『議長、そんな話で来たのではありませんよ。貴方がたから頼まれていた牧田の状勢ですがね。白金台町の酒屋、
乾物屋のおやじ連が評議員を中心にして父兄会と言う段取りですよ。巌の奴飛び回っている事飛びまわっている
事』
『何んでそんなに騒いでいる』
『父兄会の会長が此方(こちら)の仲間でしょう、父兄会の総意で会長の首を切ろうというのですよ。会長も困っていま
す』
『小野会長は気が小さいからね。選挙の時に僕等の方へまわさした父兄会の五万円の金の処理をねらっているの
だろう』
『それなんですよ。いずれ小野さんからも相談あるでしょうけれど、ここは議長が一肌ぬがなくてはなりません
よ』
『どうしてそんな事をかぎつけたのだろう。牧田のしわざではあるまい。悪者巌のしわざに違いないよ。君は校
医で評議員じゃないか評議員を此方(こちら)へ買収できないかね』
『それで相談に上がったのですが、今の所半々という所ですね。今の所では向うは大衆を持っているから強いん
ですよ。何と言っても牧田には人気があるのでね』
その時さっきから黙っていた視学の小林がむっつりとした口調で
『課長どうしても牧田の首を取る以外にないですよ。あれの首さえ取れば一切が納まるのです』
『所がやつらの防禦陣(ぼうぎよじん)は固くてね、東京府まで手がうってあるんだよ。いかんとも方法がない』
『いや、ありますよ。ありますとも。あいつがびっくりした顔を見たいとこの間から考えた名案があるんで
す』
揶揄(やゆ)するように一人の校長が、
『小林さんは悪辣無比(あくらつむひ)と言う定評があるんだからね。課長一応名案を伺(うかが)った方がいいですよ』
『名案だか迷案だか知らないが拝聴しようか』
小林視学はニッタリと笑って、
『首を切ろう切ろうと考えるから手が無いんだよ。一年間だけ市で飼い殺しにする気なら何んでもないさ。麻布
の新堀小学校が来年三月に廃校になって別系統の特種小学校に変わるんですから。廃校となれば校長も自然退職
ですよ。所で東京府の方は部長が首の辞令の中だけ見てるようですから、転任辞令の真ん中へんにそっとはさん
でやると部長なんか、上の方に盲印をパンと押すに決っています。そうすればいやでも応でも転任辞令が出せま
すよ』
その時一座はどっと拍手が湧いて『名案』『名案』と言う声が続いて起こった。区会議長と視学課長とは顔を見
合わせてニヤリと笑った。
この時愛宕(あたご)小学校の校長が、『三十人からの職員のいる学校の校長が、たった四人しか職員のいない小学校の
校長になるとは面白いあの高慢な学者面の鼻を折ってやりたいものだ、その時は痛快だろう』といってニヤリと
した。
(八)
陽春三月の西日を受けた厳さんの二階の四畳半の書斎に、二、三日の間食事を取るひまもなく東奔西走した巌
さんが、ガックリと机によりかかっていた。あの芝公園の秘密会議があってから三月後の事であった。何を考え
ているのか、ジッと空の一角を見つめているその眼から、やせて疲れた頬へ数条の涙が流れていた。その中に泣
き事を人に聞かせまいとするように無理におさえた泣き方に変わってしまった。
五分、十分静かな部屋の中になお鳴咽の声が聞こえるだけであった。
静かに唐紙が開いて、二十歳ほどの乙女がお茶を入れて入って来た。巌さんは涙を見せまいとして窓の方を向
いた。乙女はつつましくお茶を置いて巌さんの姿に目をそらして、
『お疲れでしょうし、あまり心もお痛めにならない方が良いのではないでしょうか。今晩は私が何かお口に合う
ものでも作りましょうか』
巌さんは静かに首をふった。
『ヤス子さん惨敗です。あなたにもずい分お骨折りをかけたが、これでおしまいという以外にはないようです。
牧田先生にもただ申しわけないという以外にない』
『せい一ぱいおやりになったんだから先生だってお許しくださるでしょう。私の心配なのは巌先生のお体なので
す』
『ありがとう。しばらく考えさせてもらいたいからさがっていてもらえないか』
ヤス子のさがった後に巌さんは腕を組んだままでじっと冥想にふけり出した。一時間ほどして不動の姿勢から
目を開いた巌さんは、
『まだ一年、時がある』と大きな声を出した。その声に応ずるようにしていきいきとした青年が入って来た。
『先生、めちゃめちゃですよ。鷲見さんがそんな辞令なんか返せと牧田先生に言いましたけれども、一旦出た
転任辞令はどうする事も出来ませんよ。内務部長の所へ太田政弘さんから電報が来たそうですが、どうにもなり
ません。部長は田中さんと叔父さんの板倉さんへすまんすまんと言って謝っているです』
『最後の一戦としてやっただけで望みは最初からもっていなかった。重村君よく手足になって働いてくれてあり
がとう。まだ一年あるよ』
『先生はまだやる気なんですか』
『馬鹿野郎、男という者は一度戦いを開いたらいきの根の止まるまでやるものなのだよ』
『先生の事を山嵐と言いますが、あだ名の通りですね』
はしご段を足音早く上がって来られたのは牧田先生である。御本尊に一礼した牧田先生は巌さんの座っていた
席へついた。巌さんは畳へ手をついて、
『私のいたらなさで申しわけ次第もございません』
『君に働いてもらわなくても、もらっても結果は同じになってしまった』
この一声に巌さんはやるせない想いで胸が一ぱいになった。
『巌君、辞表を出すか出さぬのかの問題が一つだけ残っている。東京指折りの大校長が、まさか新堀の校長でも
あるまいしね』
この言葉を聞いた時、巌さんの目はいなづまのように光った。牧田先生は強い威厳のある目をもって巌さんの
眼光を迎えた。
『生徒のいる所、皆教師がいなければなりません。校舎のあるところ校長が居らなければなりません。職員の数、
生徒の数をもって校長の椅子を考えるのでは、先生の教育学説が泣きはしませんか』
にらむように先生の目にくい入った巌さんの両眼には又もや闘志満々たるものが燃え上がっていた。