(五)
 おつやに起こされて目を覚した貞三は、昨夜来の珍らしい世界を思い出して、『よし俺も一人前の事業家にな
ろう』と強い決心にうながされた。工場に入る前に事務所に入ると正一は熱心に仕事をしている。貞三は見るな
り、
『社長、裏を継ぎ足して四・六判二台を入れましょう。専務はがんばりますぞ。折伏だってあんなヒョロヒョロ
共になんか負けるものか』
 意気、然として当たるべからずの勢いである。
『正一君、昨晩はどうだったね』
『沖山さんが、大先生の顔を見い見い折伏するったら、おかしくてしようがない。確信が有るんだか無いんだ
か、あんなヘナチョコで大先生の確信がわかってたまるものか、僕は大先生の後についてどこまでも社長! や
るぞ』
『随分勇ましい話だね。そんなに簡単に大先生がわかったのかね』
 正一はちょっと暗い顔をした。
『社長、今晩は夜業をやりますか、夜業がなければ松村さんの宅へ伺って、あの頑固親爺さんと一番話して見た
いんです、お嬢さんが可哀想だから』
 貞三は正一が別の世界へ入っているのをかすかに感じた。正一の前にどっかりと腰を下ろした。貞三は正一の
顔をよく見つめながら語調を新にして
『森田君、折伏よりも松村さんのお嬢さんに心をひかれたのではあるまいな』
 正一は不意打ちを食ったように真赤になって照れくさそうに
『どっちがどっちだかわからない気持ちには社長、なっています正直なところ、しかしあの圭子さんは気一本に
なんでも話す人です。実は咋晩、お送りしてまいりましたが、あの聡明な考え方には打たれました。沖山さんの
信仰がおかしいと言うのですが僕もそう思うのです。何だか、僕はその雰囲気で先生の後につくのは気が引ける
のです。何となく純一でないものを感じていやなのですが、それを昨夜から悩んでいるのです。こんな事をぶち
まけて巌先生に話したらどんな返事が出るかとも思っています』
『いやそれに似たような話が出たのを昨夜覚えている。誰かが事件はちがうが同じような事をいったらこんな返
事があったよ、”うんと悩むんだよ″ とたった一言さ、そして又しばらくしてから ”自分の立っている揚所をは
っきりしておくんだよ、足下がはっきりしていないから目ばかり回るんだよ″ 悩め悩めと言ってたぞ、その位の
返事じゃなかろうか、とても人間らしい臭(におい)がするんだよ。とても俺は嬉しかったんだが、まあ君も和泉株式会社
の専務としての位置も大先生の弟子としての位置とをよく見つめて悩んでから巌先生にぶつかって見なさいよ』
 いたわるように言っている貞三の態度には、昔の姿はどこにも無く実に落付いた真心のこもった兄のような感
じがにじみ出ている。信仰の力によって、これ程人間が革命されるものであろうか。


   (六)

 正一の悩みは松村さんの折伏に失敗してから段々と深くなった。神様が居る、日本は神国である、今度の事変
は発展するが、大事な時には神風が吹いて日本は絶対に負けない。仏教なんてものは若い者のやるものじゃない。
日本の天皇を小国の王だのなんのと軽視して居る日蓮坊なぞは歴史的に調べると蒙古国のスパイだよ、とうそぶ
いた松村さんの顔を忘れる事が出来ない。
 反対に圭子さんの熱心な信心は胸を打って来る。現証がはっきりしているし御本尊様を拝んでいなかったら、
こんな陰気な家庭に生きられない。父親はがみがみ言うし、義理の母はふくれてばかりいるし、弟達は言う事を
聞かないし、神様がいると頑張ったとて家の中には幸福がないし、ただ私の生命は御本尊だけですと発刺(はつらつ)と教職
にいそしんでいる姿は、胸にやきついている。
 一緒に折伏にいったり牧田大先生の御話を伺ったりしている時、妙に生甲斐を感ずる自分をどうする事も出来
ない。圭子さんの召使いのように、ついて歩く沖山の姿を見るたびの不愉快さ。
 正一は雑多に悩み出したのである。殊に学問のない自分を振り返って淋しさは一しおまして来る。
 夏も過ぎて秋に入った頃、正一は圭子さんと待ち合わせるために定休日に錦町の本部へ出かけた。
 珍らしく巌先生が一人、机に向かって何か書きものをなすっていた。
『巌先生、一寸伺いたいのですが、私は学問がないのですが、牧田先生について行かれましょうか』
 巌先生は面くらったような顔をして正一をまじまじと見ながら、
『悩めばついて行けるし、悩まなければついて行けないよ』
『ではこの仏法は悩むのが本当ですか』『そんなことは知らない。私は大先生と違って、研究をしておらんで仏
法の事は知らんのだ。だが私の経験は大先生について二十年間悩み通した、そして大先生のおっしゃる通りやっ
て来た、沖山君みたいに大先生の口まね許りして、ふわふわして御機嫌取りをやっていたのでは今に頭うちさ、
今青年部の花形なんだが底が浅いよ、今先生の弟子は皆沖山君に似たりよったりさ、悩みなさい、悩むんです』
『学問が無いのが肩身がせまいんです』
『学問、学問と言っても普通学の事かね、それとも君は印刷屋なんだから印刷の専門学の事かね』
『いや、皆大学や専門学校を出ておりますから、その人達よりも学問がないと言う事です。私は小学校より出
ておりませんから』
『圭子さんより学問が無い。沖山君より学問的に何でもしゃべれないと言う悩みかね、若い若いアハハハ』
と、
とんでもない事を言い出した。正一は巌先生が自分の心を知らない筈なのに、隠している自分の心を見破られた
ようで急にこわくなった。何か言おうとしたが、のどがごろごろして言えない。その時、玄関から松村圭子さん
が入って来た。正一は明るい太陽がさし込んだような気持ちがして尚々(なおなお)赤くなった。
 巌先生、特別な声で
『圭子さん、待ちかねだぞ』
『あらいやだ、挨拶も申し上げない先に、お冷(ひや)かしなさって』
『待っていたのは巌だよ、ひやかしていないよ』
 誰がひやかしたと言うような涼しい顔である。


      (七)

 圭子さんと連れ立ってお茶の水の坂を上りながら、正一は生まれて来た自分の生命の響きを感じた。小春日和
の太陽は人の心を和(なご)やかに撫(な)でてくれる、吹く風も心よく圭子さんのスマートな姿は真珠のように思われる。ふ
れてはならない宝物を持って歩いてるような気持ち、このまま一生が終わったら、というような考えまで浮かん
で来た。その時、圭子さんが
『巌先生の考え方はとてもすばらしい。大学や専門学校の卒業免状によって裏付けられた学問は、特殊な人をの
ぞいては、という条件で百科辞典の目録学問(もくろくがくもん)だとおっしゃったのはとてもすばらしいと思います。私なんかの学
問の薄い目録が、所々きえているのですから、言われて見れば悲しいような気もします』

 正一は突然現実に引きもどされて、あの強い語調で、学問がないといった自分をきめつけて教えてくれた巌先
生を想い出した。普通学なら新聞を一年間真面目に研究してみなさい。(※私見:今の新聞やNHKをはじめとしたテレビ等は編向報道が多い。SNSを見るほうがいろいろ勉強できる。)大抵な学者と話合っても、ひけを取らな
い勉強が出来る、うそと思うなら一枚の新聞を持って行って、偉い学者だと思う読者によましてごらん、おそら
く一枚の新聞をよみ切るものは絶対にいない、三面記事は誰でもよめる、政治欄で、政治の動き世界の動向を話
せる人は数少ないだろう、ことに牧田先生のように論説欄をよんでは丸をつけたり、三角をつけたりしている人
はほとんど見当たらない。文芸欄、演芸欄、スポーツは特殊な人にかぎるし、経済欄などは現代の人にとっては、
全部知識でなければならぬのに、満足に読める者がいないじゃないか。新東株が百円であろうと五百円であろう
とおかまいなしの人もあれば、綿布の相場がどうであろうと考えても見ない。それが一通り四面全部よめば普通
学として学者の中、専門となれば魚屋から、百姓から、料理人から、大学の教授までたった一色の事しかしらな
いのだから、君がたった一色だけ深くおぼえればやはり専門学者の中になる。小便の研究で医学博士になった人
もある、その博士は小便の事しかしらなくても博士は博士だ、これが有名な函館の小便博士だといって笑いだし
たのを思い出した、最もなことだと思った。
『圭子さん、僕は真面目に勉強します。巌先生のように新聞ばかりとはいえませんが、巌先生が岩波文庫は独学
者の総合大学だと仰言った言葉をがんみして、大いに読みまくる決心です』
森田さん、そう読んでも中心がなくては駄目でないでしょうか、中心は牧田先生の価値論にあるのではないで
しょうか

『僕もそれはそう思っておりますから、牧田先生の価値論を中心とした指導を受けて行くつもりです』
 こんな話をしながら坂を登りつめた二人は、だまって有楽町の切符を二枚買ってしまった。
 若い二人にはいこいの時間もいる。新しい映画を見る事にはきまっている。正一の胸の中には幾多の希望が燃
え、女神のような圭子さんを見るたびにいいしれぬ胸の熱さを覚えた。どんな苦労にも起ち上がって行こうとの
力がわいて来る。恋も純正な恋は、若人に強い生命を感じさせるものだ。


    (八)
 美しいそして冷悧(れいり)な女神のような圭子さんと四方山(よもやま)の話をして暮らした五時間を宝のように胸に抱きしめて、
正一が、和泉貞三の宅へ帰ったのは夜の八時頃であった。ここも昔の長屋生活のジメジメした感じは跡形もなく
親子三人が丁度お勤めをしようとする所であった。
 正一も人生の希望に輝いて一緒にお勤めをした。四十分程のお勤めの間、正一は御本尊様が圭子さんに見えた
り、或は二人が楽しく語り合った喫茶店の、心をトロかすような薄明りのやわらかい光線に見えたり、まだ結婚
と言うような所までは考えないにしても、又考えられる事でもないが、そんな世界がうすぼんやり浮かんで来て
何辺題目を唱えたものやら覚えが無かった。お勤めが終わって、こんなお勤めの仕方でこんな信心でよいのか、
と思ったとき〟ドキン″とし、お艶(つや)の『有難い御本尊様……』と、つぶやいている真剣な声になおさら自分の妄
想がいやな気がした。この一年自分の過去をふり返って見て、大変な功徳だと思ったりして食卓についたのであ
った。食卓には大した料理もないがお艶や貞三の和(なご)やかな気分で美味しく御飯を食べた、しみじみと幸福と言う
ものを感じて、さてこれから御書を拝読しようとしたとたん、あわただしい人の気配がした。入って来たのは松
村さんだった。正一はこの間、大冊の国体論を出された事を思いだして、どうした事かと松村さんの顔を見た。
松村さんは貞三に向かって
『和泉さん、実は貴方の所で刷ってもらった国体論の紙代の約束手形、明日になっているのだが、二万円なけれ
ば私の銀行がつぶれてしまう、何とか工夫のないものか、ぜひ金策をたのみたいのだが』
 いつもの頑固に似合わず妙に改まって見えて頭を下げた。正一はこの間折伏に行って、さんざんおどかされた
松村さんと別な姿を見、又自分の女神と思う人の父親であると思うと、困っているさまに胸が一パイになって来
た。お艶はびっくりした顔をして
『どこの銀行ですか、つぶれる銀行なんて、そんな銀行と取り引きなさらなければよかったのに』
 と横から差出口(さしでぐち)をはさんだ。
 その時、貞三はお艶を見て
『馬鹿な事をいってはいけない、私の銀行がつぶれると仰言ったのは銀行がつぶれるのではなくて、松村さんの
取り引きのロ座がつぶれるというのだ。そうなると約束手形が不渡りになって、非常に信用を落されて、松村さ
んの今後のお仕事が出来なくなる。それで御心配なのだよ』
 それから松村さんの方に向かって
『実は私共の方で無理をして四・六判を入れたものですから、ここ半年は金の事では、大変困ると私も覚悟して
いるのです。手元に遊金がありますれば、御用立てするのですけれども、今はどうにもなりません』とうちあけ
ると、しばらく松村さんは黙念(もくねん)としていたが、やがて非常にいい出しずらそうに
『貴方の小切手でも借してもらわれますまいか』といって、貞三の顔をうかがった。
和泉貞三はびっくりした顔をして、まじまじと松村さんの顔を見つめた。