暁

       (一)

 和泉貞三はしみじみと、自分が歩んで来た世界以外に、力強い不思議な世界があることを感じ出した。罰と利
益の海に抜手を切って、勇しく泳ぐ自分達夫婦は、怒濤に恐れぬ大魚の如くで、朝の出がけに、御本尊に合掌し
た清清しさを胸にだきしめ、勇気に充ちて職場へと出かける日常は楽しいものであった。
 おつやは、夫の出かけた後に、すくすくと育つ貞一を見まもりながら、この五ヵ月間の信仰生活を深く味いな
がら、近所の頼まれ物の針仕事をして、静かに毎日を暮らしていた。楽しみはその後、御恩返しにと折伏して、
一緒に信仰している、隣りの大工の小母さんと信仰の話をすることであった。時々の小泉先生の御宅の座談会は
何よりの楽しみで、本部で大先生の力の強い御話を聞く時折には、涙の出ることが度々あった。おつやには大聖
人様が一番有難く、牧田大先生は大聖人様のお前にどっかと御座りになっているように見えた。夕方六時半に帰
る夫の姿に明るさが見えて、こんな幸福な世界があったことを、どうして今少し早く気がつかなかったかと、時
間を損したように悔しかった。食事の後に、今月は信仰に入って五ヵ月目の祝日と一本つけられて、ほんのりと
機嫌よく酔った貞三は『おつや、森田正一を知っているか』
『貴方の昔の子分でしょう。あんな不良とつき合うのはおよしよ』
『可愛想なんだ、俺が足をあらってから岡に上がった河童さ、会社はくびになるし、食うには困るし、今日泣き
ついてきて、兄貴又惡いことをしたくなったって言うんだ、俺もほとほと困ってしまった』
『貴方折伏したの。それが大善生活よ、まさか小善をしたんではあるまいね』
 貞三は恥かしそうに、いたずらした子供が父親にみつかったような顔をして
『小善だよ、俺はどうもいらないことはベラべラしゃべれるんだが、折伏となると小泉先生みたいに出来ないん
だ。のどまで声が出るんだが、声がのどの奥でごろごろしてね、俺は猫年生まれじゃないだろうな』まじめにな
って言っている貞三の言葉におつやはふき出して
『それでどうしたの』
『二カ月まってろ、横田の持っている手きんの機械が、三万円で売るって言っているから、俺の八畳の隅に据え
つけて仕事をさしてやる。名刺を刷れば一筒五十銭にはなるから、食っていけるから二カ月間我慢しろと言った
よ』
『手きんと言うのはあの丸い手で印刷する機械でしょう』と、答えながらおつやは何か決心するもののようであ
 った。夫の出米ない折伏を決心したらしい。
『二ヵ月待たなくたって貴方さえ決心なされば』と言いかけたおつやの言葉をさえぎって『二ヵ月と言ったわけ
はね。今日不思議なことが起こったんだよ』貞三はとても嬉しそうに目をかがやかした。おつやも思わず微笑ん
だ。『今朝職長からは非常召集さ、何気なしに出かけたら二十枚程の、とても面倒な組版物を仲間の五人に渡し
て、さあ八時から午後の四時までがっちりがんばれ、昼休みはカッチリ一時間、腕のあらん限り組むんだって、
えらい意気込みじゃないか。俺達はびっくり、原稿を見たらとても面倒なのさ』
 と言って貞三は微笑んだ。
 おつやは何がなんだかわからなかった。
       (二)
 貞三は元気よく言葉をつづけた。
『俺もこんな面倒な仕事にぶつかったことがない、うんと下腹に力を入れて『南無妙法蓮華経』と唱えてさ、こ
れは一寸恥かしいが、あの『すり』をやる時の緊張し切った気持ちになり切ってやったよ、夢中でやったよ、四
時にかんかんと耳元で鐘を打たれるまで、夢中だったね。そしたら職長と社長とさ、その上、あの有名な友同印
刷会社製版部長さんとが俺の脇に立って居るんじゃないか。そして偉いよくも六頁も組んだ、他の連中は二頁半
だ、和泉偉いぞと言うんだ』
 と言い切って貞三は心から嬉しそうな顔をした。
『友同印刷の部長さんが社長に向かって、偉い職工を持っているね、日給いくら出していますかって聞いたのさ。
その時の社長の顔は面白かったぜ』
 その時の様子を思い出してか、くすくす笑い出しながら話をつづけた。
『社長がね五円しか俺に払っていないのに、俺の顔をぬすみ見しながら部長さんに十円ですよ、我が社も普段か
らこのような優秀職工を抱いているんですから、六頁並の単価じゃ困りますよって言ったら、部長さんが単価の
問題じゃなくて外註するにしても期日が二ヵ月もので余程腕のよい職工がいる所でないと外註して、大事なお得
意様に迷惑をかけてるからね。和泉さん、二カ月でこの三百五十頁のものを組上げて下さい。社長、和泉さんに
請け合わして下さいよ。和泉さんの組の腕は、東京で五人とは居まい、私も安心して帰りますって帰っちゃった。
その後で社長がね。さっきの話もこれからの話も内密にしてくれよ、今日から日給七円に昇給、二カ月間三回の
臨時手当と、そして三百五十頁にその次頁を百頁まして請負ってくれって、俺も社長の心臓と急に偉くなった自
分にびっくりして。二つの面が一度に嬉しくなって『ようがす。引き受けました』とどなっちゃったよ、こんな
わけで二ヵ月間は三百円余計に入るから森田正一を小善々々で、お前の気に入るまいが救ってくれまいか』とぴ
ょこんとおつやに頭を下げた。
 聞いている間、御本尊様の大功徳だと、御本尊様を真剣に拝んでいたおつやは『貴方』と叫んで声も泣き声に
なって
『いいわ、預金で買って頂戴、明日買って頂だい』
『借金だらけだった俺の世帯、なんぼ五ヵ月間俺が働いたからって三百円の大金はあるまい』
 言いも終わらぬ中におつやは、つと立って
 御本尊様の前の筒の蓋を明けた中から、丁寧にふろしきに包んだものを出して包みを解いた。包みの中から真
白な紙に包んだものが現われた。白い紙をのぞくと真赤なひじりめん長じゅばんが出て来た。貞一が病気の時、
小泉先生に買ってもらったものである。おつやはじゅばんを押しいただいて袖の中から、百円札を三枚出して貞
三の前におしやり、
『私が針仕事でためたお金です、使って頂だい。今こそ私は貴方のすることには何も文句はありません。貴方は
今こそ私の夫ですわ』
 と涙にぬれて貞三のひざにうち伏した。
 貞三は半分涙にぬれながら
『昭和の山内一豊の妻か、あの人は鏡台の引き出しから、うちの賢夫人はじゅばんの袖からと、どっちにしても
山内家にあやかって俺も殿様になれるかな』
 と言った。
       (三)
 手きんの印刷機が一台、八畳の隅に畳一枚の三分の一を占領して据えられた。この二ヵ月間の貞三の家は朗ら
かであった。今日は手きん印刷機を据えて丁度二カ月目、貞三の会社の大仕事も終わる日である。一仕事を口笛
ふきふき仕上げた正一は、夕日を面にながめながら一生懸命刷上がりのチラシを揃えているおつやに向かって、
『姉御、兄貴は今日は早いかな』おつやは顔をあげた
『正ちゃん、姉御はおよしって何百ぺん言わせるの、貴方もすりをやめたんでしょう。言葉も少し改めてはど
う』
 すりと言う所に力を入れて言っているおつやに両手を上げて正一は叫んだ
『止める止めるなおす、直すよ、声がでっかいよ』
 と一息入れて、
『よし根本からなおさなくては駄目だ』とつぶやいた。
『正ちゃん、根本からってそれでは貴方信仰するの』
『信仰じゃないこうするんだ』
 と傍にあった筆を取って一枚の紙に、和泉印刷株式会社取締役社長和泉貞三宅と書いて表の戸にはりつけた。
 『冗談するんではないよ正ちゃん、八畳の破れ畳のすみに、チョコナンと小さな印刷機が一台、それで名刺とチ
ラシを刷るだけで何が社長さ、馬鹿々々しい』
 『姉御、いやおかみさんと、又違った、お姉さんか、いけねえ奥様だ、ねえ奥様、資本金は汗と涙で奥様から出
た三百円。社長は東京屈指の組版職工、専務取締役は日本名代の刷名人森田正一、監査役は町内屈指の締まりや、
和泉おつや、使用人は来年の今頃は何百人さ。こうなれば兄貴を改名して社長殿、姉御は今から御奥様、正公、
只今より早代わりして専務取締役と、どうたね、御奥様』
 とまじめ臭ったおかしさに、ふき出したおつやは
 『ふざけてばかりいるんじゃないよ』
 と。その時、丁度貞三は折箱と一升瓶を提げて帰って来た。御本尊様の前に二つを供えて題目を唱え終わった
貞三は、ちゃぶ台をはさんで座った正一に向かって、
『正公、俺が一生一代の頼みがあるが聞いてはくれまいか』
『兄貴、いや社長、森田専務は如何なる命令にも服します』
『ほんとかね、有難い、俺は今日初陣なんだ、助人になってくれまいか』
『いけねえ、二人とも姉御いや、奥様の御世話になって堅気になったんだ、喧嘩の助人なんぞは出来ねえ、こう
なれば社長もくそもあるものか。兄貴初陣もくそもあるものか、正公たしかに断る』
『正公、けんかや出入りじゃない、実に立派なことをするんだ。世界一番のよい事をするんだ』
『泥棒じゃないんだね、まさか元のすりをやって人助けをするんじゃないだろうね』
『違う違う、日蓮正宗に帰依さして人間を根本からたたき直すことだ。俺はまだ一人も折伏した事がない。数々
の御慈悲をうけると是非とも折伏しなくてはと決心した。それで最初にまず味方からやるつもりで頼む』
『その御講義は、姉御いや奥様から耳にたこだ。しゃべる事は兄貴より上手だ、相手は誰だ』むっつり一言貞三
は答えた。
『正公、お前だ』
 戸迷った顔をしている正公に、おいかぶせるように、
『俺の助人になって、よっくお前に言いきかせて呉れ』
 この時、和泉貞三は座り直して正公をじっと見つめた。その姿にはいい知れぬ威厳が表われた。おつやは御本
尊様に向かって手を合わせたのである。
       (四)
『森田君、僕は此の二ヵ月の間、はりきった気持ちで働いたよ。すりをやるあのあぶなさから見れば働くこと
なんかはなんでもない。題目を口にして一心不乱だ、誰が何と言おうと僕は耳に入らなかった。友同印刷の部長
さんから俺の会社へ此の仕事が終わったらこいと云われた時に、僕ははっきり断った。此処の会社で人間にして
貰って、渡り職人の、真似は出来ないと、そうしたら今日社長がこの話をし出してね、小石川に分工場がある。
組版の仕事が多く出来るようにしてあるんで毎月損失だ。君なら赤字にはすまい。仕事は請負いで事かかぬよう
に出すから引き受けて呉れまいか、十二万円として二年月賦でよい。都合では三年でもよいから引き受けて欲し
いと、僕はあの工場は知っている。全版の一台も入れたら立派な工場だ、しかし僕は相談する人があるからって
返事をしなかった。僕も一文無しで町工場の主人になるのは実に有難いが、余りの御本尊様の功徳に涙が出るば
かりだ。折伏を一人もしない僕がどうして御本尊様に甘えて許りいられるものか。お前を折伏して、お前が信仰
しないようなら断ると決心した、どうだ信ずるか日蓮様を。いやか、どうだ』
 じっとうなだれて聞いていた森田正一は、顔を上げて和泉貞三の顔をじっと見つめ出した。おつやは正一の横
顔をじっと見つめ出した。貞三は正一の眼をにらむようにして返事をまった。一瞬の沈黙は永遠の長さを思わせ
る。かすれた様な声で正一が
『兄貴が人問的に偉くなったのは姉御の力か、日蓮様か』
『日蓮様だ、日蓮様の御本尊様だ、俺は偉くはない、御本尊様の御慈悲が身に応えるんだ。死んだって御本尊様
を離れないぞ、牧田先生の御恩は忘れないぞ。小泉先生の教えはそむかないぞ』
 と段々泣き声になり、涙はほおに伝わるのである。そして声はとぎれてしぼるような声で
『これ以上立派な御本尊様はないぞ、御慈悲は深いぞ、罰はこわいぞ正公』
 正一はだまって立った。そして御本尊様の前へ行って大きな声で
『南無妙法蓮華経』と唱えて心の中でこう叫んだのであった。
『やくざな兄貴をこんな立派な兄貴にして下さいました。又やくざの正一が御世話になります。兄弟二人御やっ
かいかけまして、申し訳ありませんが宜しく御願い致します。御本尊様のことは姉ごからよく聞いて居ました。
無礼ばかり申して本当にすみません』
 黙禱の終わった正一は、貞三の前にキチンと座って
『兄貴、森田正一、本日只今から信心致します。明日お寺につれて行って下さい。牧田大先生にも会わして下さ
い』と頭を下げた。
 おつやの喜ばしげな朗らかな顔、貞三の泣きぬれた顔、正一のまじめくさった顔を、戸の外からのぞく様にし
て入って来た小泉先生が一部始終を聞いて手を打って喜んだ。
 おつやのついで出す冷酒をぐっと一口飲んで
『目出度い、人一人が立派になるということは目出度いことだ。この家は二人半だ。実に目出度い』
 正一はむくれた顔をして、
『俺は半人前か小泉先生』
『入った許りの新入生、早く信心し、折伏して一人前になれよ』