(三)
おつやは半分夫が可哀想にもなった。が知っているわけはないと思ったので、半分はからかい気分にもなり、
『そんならどんな事が大善生活なの』
『その……ウム……その』
『言えないじゃないか』貞三は、赤くなったり、青くなったりしてうなった。
『言えるとも……ウム……こうだ……ウム……世界中の人にただで入用のものを配給することだ』貞三は自分な
がら感心したというような顔をして
『配給で困る人のないように、どんどん物を造って、ただでくれることさ』
『馬鹿も休み休み言いなさいよ、ただで物を呉れるようなことをしたら、貴方のような怠け者は益々なまけ者
になる。大先生がおっしゃった。この世の中は、立派そうな顔をしても、立派な人間はいない、皆凡夫だ、私も
凡夫だ、凡夫と言う者は弱い者で、ずるい奴で、うそつきでなまけ者だ。そんな者計りの末法の今日、施しをし
たり、ただで物をやったら、皆を悪くするばかりだ。それよりも大善生活をさして、自分で働いて、その人相応
に社会につくすんだ。美しい家、美しい自分、美しい子供、物や金の足りなくない生活をする強い強い力、そし
て清い命を湧き出させるんだと、私は本当だと思いましたわ。生命力の弱い人に物をくれたり、頼らせたりした
んじゃあ、この世の中の荒波を乗り切らせることが出来ないわ。貴方のように、人ばっかり頼ることになる。そ
して物をくれなかったり頼れなくなると、すぐ人を怨んだり、世をのろったりして、自分をちっとも見つめない
の。そんな事ではいけないわ。私はどうしても日蓮様を拝んで強い生命を持ちたい、貴方もどうか一緒にやって
頂戴』
とおつやは眼に涙して夫をみた。貞三は、ムッとした顔をして
『俺はいやだ。そんな下等な真似は出来ない』
『下等なんて、なんてもったいない事を言うんだろう。これが私達夫婦に残された、たった一つの生きる道よ。
貴方がどうしても反対なら、私は、おひまを頂きます。貞一をつれて出て行きます。食えなくなったら、いいえ、
仏様がついていて下されば、食えぬ事はない、と大先生はおっしゃった。食える、しかし万一食えなくなったら
……』おつやは涙にむせんだ。そして必死で叫んだ。夫と子を思う真心で『一パイだった。
『……死んでしまう。死んでしまう。貴方にだまされた、馬鹿の私が、日蓮様にだまされるなら本望よ』そして
『貞一が可愛想だ、貞一が可愛想だ』とすすりないた。
貞三はおどろいた。だまし切れないと思った。そして、おつやをこんなにした未知の人に、大きな嫉妬を感じ、
むらむらと怒りが出て来た。
(四)
『その野郎は大うそつきだ。お前は、その大うそつきにほれたんだな』
おつやは泣くのをやめた。そしてキッとなった。 『なんて事を言うの貴方は。馬鹿な事を言うのも程度問題よ。あんな立派な御年寄の大先生に、なんてこと言う
の。万一ね、そんな事があったってこちらはしがない職工の女房、およばぬ鯉の滝上りってね。馬鹿馬鹿しい。
私の着ているものを見て御らん。冗談じゃないわ。そんな事より私は、貴方と貞一の事で胸が一パイよ』
貞三は行きがかり上から
『その大うそつきの大先生。てのは何処にいるんだ。おつやを、こんなにだました奴は、捨ててはおけない。俺
もやくざだがお前の亭主だ。一つやっつけてやらなくては気がすまない』
と肩をそびやかしたが、何となく力のない姿である。
『亭主亭主と、いばるんなら少し亭主らしい事をして、やくのなんかはおよしよ。それで、貴方大先生に会って、
御話がわかったら大善生活をするね』
『何、俺が教えてやるんだ。俺にあったらぺコツクに違いない、その姿をお前に見せたら、一ぺんに熱がさめる
だろうなあ。早く見せてやりたいよ』
『冗談じゃない。貴方がペコツクにきまっているよ。そんな空威張はおよしよ。大うそつきだなんて、大先生の
事を悪口言ったら、罰が当たるから』
『益々けしからん、そんな得手勝手なおどかしをいって。きっと愚男愚女をだます、悪党坊主に違いない。何ん
て名前の奴だ』
おつやは、もう言っても駄目だと思ってなげるように、
『目白の駅のすぐそばで牧田城三郎先生って言うのよ』
『よし一番あって話をきめてやる。ウム腕がなるな』と空虚な声で言った。
翌日は丁度休日で、和泉貞三は一ヵ月に続く大善生活問題の家庭争議を、解決するために目白の駅を出た。二
月と言うのに、オーバーも着ていない、貞三の姿は寒そうに見えた。日は照っているが、地面にはまだ温かさが
たまってはいない。交番で聞いてたどりついた牧田先生の家は三十坪程で、掃除は行きとどいていて、清楚な感
じの家であった。想像してきたのとはまるっきり違う。お寺か又教会のような家か、さもなければでかでかした、
こけおどかしのかざり付けの家ではないか、と思っていたのだった。
貞三は入る時一寸気おくれが、妙に敵愾心も湧いてきて、ふてぶてしげに戸をあけた。
『ご免下さい』品のよい老夫人が現われた。
『牧田先生のお宅ですか』
『ハイそうです。どなた様でしょうか』
『和泉貞三と言いますが、小泉さんの紹介で』
老夫人は奥へ取り次ぎに入った。
『お父さん、小泉先生の御紹介で和泉さんと言う方が、お父さんに会いたいそうですが』
『お通ししなさい』と言う静かな声が聞こえた。さっきの老夫人が現われて丁寧に『どうぞ』と言う。貞三は、
先生の居間と思われる八畳間へ通った。静かな、清らかな、明るい部屋である。自分の家とは思いも寄らぬ違い
方である。床にはむずかしい字の掛軸がかかり、水仙が活けられていた。その前の机に向かって、何か書きもの
をしていられるのが先生らしい。庭は十坪程だが、品がよく造られて、日は温かく照らしている。
『和泉です』と老夫人に出された蒲団に座って挨拶をした。七十何歳かと思われる気品ある老紳士、しかも眼光
は『烱烱』として人を射る威厳、思わず頭を下げた。
『小泉さん。その後はどうです』
貞三は噂にだけ聞いてまだ会ってない小泉さんだ。俺が小泉に会う時は、大先生を一本やりこめて、小泉を見
下してやる時だと力んで来た自分をふりかえった。しかし返事に困るので
『ハイ小泉先生は丈夫です。ピンピンしておりました』
後のピンピンはいらない事だと思ったが出てしまった。
(五)
『ヘイ、それがその、うちの女房がうすのろでして、どうもよく小泉先生の事を言わないもんですから。ハア、
私が見たのは十日程前なんですが』
『そうですか。小泉さん立派な奥様が出来、家の中もおだやかになり大変幸福になってね』
貞三は一寸むっとした。あてつけられたように感じた。
『小泉さんもよく女房を取りかえたって話ですが、今の奥様も可愛想ですね』
『どうしてかね。貞節な女房を持ち、三界孤独のあの人が、お母さんと呼ぶ人も出来、二人の子供も丈夫に育ち、
生活力もたくましくなっておられる時、何か奥様が不足を言っているのかね』
貞三は俺の心がわからん爺さんだと思った。
『かかあを取りかえるくせがあるからです』
かかあなんて言ってまずかった、と思った貞三は言いなおした。
『何べんも女房を取りかえる人だから、又今の奥様ともわかれる時があるかと思って、可愛想と奥様を思ったの
です』
老人はニッコリした。そして貞三をまじまじと見て
『この世の中の考え方が貴郎のような考え方で、万事解決がつくものなら簡単なものです。貧乏人はいつまで
も貧乏、金持ちはいつまでも金持ちであると言うことはあるまい、悪いことをする者が、終生悪い事ばかりする
とは限るまい。嫁はいつまでも嫁で姑にならないかね。女房運の悪いものはいつまでも悪い。夫運の悪いものは
いつまでも悪いとは、必ずしも決まっていない。もし運命の転換と言う事が、絶対にないと言う宿命観が真実な
ら、世の中に努力する者がない筈だ。努力だけによって運命の転換はできるものではないが、世の中の人は運命
を転換させるために皆苦心しているではないか。例えば、怠け者の、スリでもする悪い夫を持った妻がいたとす
る。その妻は夫運が悪いとあきらめて、じめじめと泣きながら夫のするに任せて、何も言わずに諦めきって生き
ると言う事があるなら、そんな女を馬鹿と言うのです。少しでも知性があれば、夫に文句を言って、夫の行為や
心の持ち方を直そうとするのがあたり前のことだ、あるいは自分が働いて幸福になろうと努力するか、又はそん
な夫と別れて別な良い夫を求めるか、必ず宿命の打破を計ろうと苦心するのだ。しかし、悲しいかな宿命打破の
根本の理法を知らないから一生苦しんで死んで行く、本当に可愛想なことだ。そんな人達にどうか宿命転換の根
本理法を教えたいと私は毎日念願している。小泉さんはその宿命を大善生活法に依って打破し、そして新しい力
強い将来の生活を築かれた方なんだ。仏天の加護がある、絶対にあの家庭は崩れない、少なくとも貴郎の家庭と
は千里の差がある』
貴郎の家庭とは千里の差がある、ときっぱり言われた先生の態度は、大確信に満ちた態度であった。その声は
貞三には万雷の一時に落ちた感じである。強い力だ。貞三は下をむいた、スリをする怠け者、女房が別れて別な
夫を求める、と先生の言った声が、耳の中でじんじんとなりひびくのである。そして、俺の事を小泉の野郎がき
っと告げ口をしたに違いないとひねくれ者の常として心の中で叫び、そして大先生が俺に当てつけていると怨ん
だ。
しかしこの時にはもう、『爺』とは牧田先生の事を思えなくなっていた。千里の差だと言うあの声が『じん』
と胸に来た時に牧田先生の偉大さを感じ出したのである。