大善生活

       (一)

 和泉貞三は、もくもくと、あわい電灯に照らされた露地を通って我が家に近づいた。我が家と言っても六畳一
間で八軒長屋の端である。
 がたがたと音をたてながら硝子の代わりに何枚も板を打ちつけてある戸を開けて家の中に入った。破れ畳に
うすい蒲団を着て一人息子の貞一が寝て居る。うす暗い電灯の灯は人の心も滅入らせる。犬の遠吠えが聞こえる。
夜も大分ふけたらしい。
 女房のおつやは、冬だと言うのに袷一枚で羽織も着ず、今日小泉先生の御宅であった、宗教座談会の感激を思
い出しながら、チョコナンと心細い炭火に手をかざしてあたって居た。
 おつやは三十歳で良家に育ったらしい品のある女だが貧にやつれて見る影もない。夫の帰りを見て『お帰りな
さい』とおつやは言った。
『ウム』と貞三は言った切り、返事もしないでおつやの前にどっかと座った。三十六歳の働き盛りだが『すり』
の親分に縁があって印刷職工でありながら、牢へ行くこと三回、漸く出て来て東光印刷社に勤めたが、真面目な
勤務がどうしても出来ず毎月足りない足りないとおつやから愚痴を聞かされている。そのくせ怠けものの言いわ
けの符牒とでも思ってか、流行の赤を気取っていっぱしの理屈を言うことを習っている。
 夫のみすぼらしい姿を見るとどうか一人前の生活をさせてやりたい一杯の心である。
 小泉先生の言うようにすればきっと今の自分達の不幸が打開できるだろうと思うと、希望にもえて、早く夫に
話したい気持ちが馳せ渡った。『あなたどうしても心をきめて大善をしなくてはどんなにあせっても駄目なのよ』
と。ボッチリ言った。その声には張があって眼も生き生きとして居た。『何、大膳にする』貞三は鳩が豆鉄砲を
食ったと言うような顔でキョトンとしながら雨で模様になった天井を見上げた。『そうよ、大善よ、あなたのよ
うな悪党でも、大善をすれば中善も小善も要らないし、暮らしもきっと楽になるんだって』と、おつやは声をは
ずませ自分の感激を夫にわからせたいと思った。
『小膳―小膳で結搆じゃないか。大膳なんか要るもんか』
『あなたよく落ちついて聞いて頂戴。小善は駄目なんですって、大善生活でなければ生活の建て直し、貴方の根
性のたて直し、一家の幸福の根本は大善生活だって、小泉先生と大先生もおっしゃった。私も本当と思いました
よ』とおつやは思いつめたような表情で夫の顔を見た。
『馬鹿。小膳で沢山じゃないか、ぜいたくを言う時ではないよ』
 おつやは興奮し出した。
『ぜいたく。そりゃ、たまには貞一にだけでもぜいたくをさしてみたいと思うけれど、そんな事は思いもよらな
い今の生活、永い永い貧乏生活だからせめてこの生活からはなれて、貴方も誰が見ても一人前の人と見せたい一
念で一ぱいなのよ、私はぜいたくなんか一つも願わないのよ。今日のお話では大善生活をしなさい、きっと良く
なると、きびしいけれど、優しいお顔で小泉先生のその上の先生がおっしゃった。大したもんだった。私のその
時の感激は、私はその時きっと貴郎に大善生活をさせると心の中で叫んだのよ』
 あまりのおつやの真剣さに貞三は驚いたが、又おつやの言う事は少しもわからない。妙な気持ちである。彼は
大善と大膳と間違えているのである。『おつや、馬鹿も休み休み言えよ、考えても見ろ。こんな狭い部屋の中に
大膳を据えてどうする。寝る所もなく貞一の歩く場所もなくなるじゃないか。お前がどうしてもと言うんならど
んな苦労をしても買ってはやるが、お膳ばっかり大きくても、上にのっかるものが何もなくては何にもならない
からな。お前にも永く貧乏をさしたから、結婚した当時よく行った雅叙園のあの大きなテーブルの御馳走やあの
時の楽しさを思い出したんだろう。けれどこの狭い部屋ではどうしようもない。今少しの間、辛棒していろよ、
立派な家に移ってあの倍ものテーブルを買ってやるからな、あれで間に合わせておけよ、この間、脚のがたがた
を直してやったばかりじゃないか』貞三はしんみりとなった。おつやはあっけにとられた顔をして貞三の顔をま
じまじと見つめた。


       (二)
 

 貞三は一寸てれて、横を向いた。新聞紙を貼りつめた隣の家との仕切りの板が、初めて見る人のように眼にう
つった。なんだか珍ぷんかんぷんでおかしいと思った。おつやは
『貴方、大善と言うことはテーブルの事ではないんです。大善生活と言って世界で一番良い事をすることで、大
善生活という生活をすれば、生命力も強くなりたくましくなって、幸福な生活が湧き出て来ると大先生がおっし
ゃいました。是非これによって家庭革命をするんですって』
『大善……』と貞三はつぶやいて、『そんな柄じゃない』とつけ足した。そして家庭革命なんて夫婦喧嘩の基だ。
これ以上、おつやが革命を起こし、がみがみ言われたらたまったものではないと。先輩の言う革命という恐ろし
い妄想にふるえながら、どうして、おつやがこんなとんでもない事を考え出したかと思った。
『柄やなんかでやるんではなくて、夫婦揃って、仲よく、一生懸命に日蓮様を拝む事によって、私達きっと幸せ
になれますよ』と、おつやは真剣な態度であった。
『日蓮』貞三は又びっくりした。思いもかけない事である。しかし彼は元気が出て来た。貧乏の話でなければ、
女房なんかに負けるもんか、と思ったからである。
『おつや、そんなうそつきにだまされるなよ。宗教なんてものは馬鹿から金をまき上げる手段なんだ。仏様や神
様なんて、この世の中にはあるものか。偶像崇拝と言って、野蛮人のすることだと共産党では言っている。一体、
日蓮なんか拝んで大善生活なら、警察なんか要らないじゃないか。そんなものは第一お前理屈が合わないよ。宗
教なんか、みんなだまっくらかしだ。拝めば大善生活だなんて。俺はずーっとそんな奴等より、大善生活の事な
ら知っている。やめた方がよい』と、貞三がこう言った時に、おつやの目は光った。少し怒った顔である。
『止めない、絶対に止めない。何もお前さんが大善生活を知らないんだ、お膳と間違えたくせしてさ』
 貞三は此処が大事な所と思った、夫の権威にかかわると思った。
『何、あれは、お前が哲学の事を話すとは気がつかなかったからさ。小泉なんて奴は、たかが小学校の教員じゃ
ないか、何を知っているもんか。俺はこれでも共産党の飛田先生の直弟子なんだから、哲学の事ならよく知って
いる。哲学の事と最初からわかっていれば。お膳なんかと間違いはしないよ』
 おつやは情けない顔をした。
『哲学だが銀学だか知らないが、私は金額の方がいい。お金が出来て、おまえさんが正直な働き者になって、貞
一を大学へでもやれたら、私は何時死んでもかまわない、いや、そうしなくては、私は死んでも死に切れない』
と、今にも泣き出しそうな顔になった。
 貞三はおつやの泣き顔と、『金額』という言葉は苦手である。それに息子の事を言われては、一人息子の事と
て胸がつぶれる思いだ。どうしても妻の心を自分に引きつけておかなくては都合が悪い。どうしても妻を説得し
て、自分の思い通りになるようにしなくてはならない。と、それには小泉なんて奴より偉い、と女房に思わせな
くてはならないと決心した。『俺の知っている大善生活と言うのはな、おつや』
『何さ』と、おりやは半分なげやりの態度である。心の中で夫の知ったか振りを軽蔑しながら、どうして最高の
真理を求めるのに、まじめでないのか、となげいた。
『おつや』と、強く貞三は呼んで、妻の態度の反響を見つめた。おつやは安ものの火鉢の中の灰を、火箸でかき
まわして、貞一の将来を考えては、暗い気持ちになっていた。
『おつや』と、貞三は更に強く又呼んだ。その時、おつやは怒った顔をして貞三をじっと見た。『聞こえている
わよ。大善生活が何だか知りもしないくせして本当に聞こうともしない。おつや、おつや、って伯父さんの死ん
だ時の御通夜の話じゃあるまいしさ』
『大善生活の事なら俺は知っている。誰よりも知っている』と貞三は力んだ。