語訳(妙法蓮華経如来寿量品第十六の1)

 

爾の時に】文上では釈迦の涌出品の説法が終ったとき。文底の仏法では、末法の時。

】文上ではインドの釈迦、発迹顕本して本地をあらわしても、五百塵点劫の昔に成道した仏である。文底の仏法では、久遠元初の自受用身、末法御本仏日蓮大聖人様である。

諸の菩薩】序品第一からいた、文殊、観音、薬王、月光、弥勒などの八万人の迹化の菩薩や、宝塔品第十一に出てきた十方の仏土の他方の菩薩たち。文底の仏法では、末法の衆生のこと。

一切の大衆】仏菩薩を除く、アラカンを始めとする八界のあらゆる衆生である。文底の仏法では末法の衆生のこと、

善男子】ふつうは仏法を信ずる在家の男をいう。しかし法華経では女人成仏も説くから、男女の別なく仏法を信ずる在家の人を呼ぶ言葉である。

如来】前述の仏と同意である。

誠諦の語】誠とは真実ということ。諦とは明らか又はきわまるということ。仏が自ら深くきわめ明らかにした真実の言葉である。寿量品の説法こそ仏の随自意の教えであるからである。しかし、文底の仏法からみれば、南無妙法蓮華経のみが真の語であり、文上の寿量品はまだ随他意の語というべきである。

信解】信心してわかること。信は智を生み解は慧を生ず。信は価のごとく解は宝のごとし。

弥勒】弥勒菩薩。弥勒は慈氏と訳す。名は阿逸多無能勝と訳す。天竺(インド)波羅捺国のバラモンの家に生れ、釈迦の仏位をつぐベき補処の菩薩となり、釈迦に先立って入滅し、兜率(とそつ)の内院に生ず。法華経では重要な菩薩で、序品では文殊に、涌出品随喜品では釈迦に問を発し、寿量品・分別品・随喜品では対告衆である。また弥勒のために菩薩の行法を説いた弥勒問経がある。観心にて拝すれば、御義口伝には『彼の為に悪を除くは即ち是れ彼が親なり』の故に、弥勒(慈悲)とは末法の法華経の行者(御本仏日蓮大聖人)であると仰せられている。

信受】信じて受持すること。

三たび白し已って復言さく

三たび請じて止まざる】一切の大衆が三度でやめず、四度、仏に説法をお願いするのである。仏は四度いましめられて説法を始めるから、このことを四請四誡といい、仏法上の大儀式である。

如来の秘密神通の力】文上の仏の如来秘密神通之力は、いまだ通途のもので、御本尊様こそ真の如来秘密神通之力をもたれるのである。御義口伝(七五二頁)には、くわしく説かれている。無作三身の依文であり、われらを即身成仏させて下さる御本尊様の御力をいう。『秘密』とは「一身即三身なるを名づけて秘となし、三身即一身なるを名づけて密となす」また、「昔説かざる所を名づけて秘となし、唯仏のみ自ら知しめしたもうを名づけて密となす」とある。すなわち御本尊様のことである。『神通之力』については、神は法身、通は報身、力は応身である。これ無作の三身の依文たるゆえんである。

天人及び阿修羅】天界、人界、阿修羅界のもの。

釈迦牟尼仏】釈迦は種族の名。牟尼とは聖人のこと。釈迦族の中で聖人であり仏であるから釈迦牟尼仏という。釈迦仏にも、六種類があるから注意を要する。すなわち、①蔵教の釈迦②通教の釈迦③別教の釈迦④法華経迹門の釈迦⑥法華経本門文上の釈迦(久遠実成)⑥法華経本門文底の釈迦(久遠元初自受用身、日蓮大聖人)

釈氏の宮】雪山の南方ネパールの高原から中インドへかけての土地をしめたのは、インド住民の中でも、もっとも優秀なるものであって、ことにこの地方に王国を建てた者は、いずれも「釈迦」を姓とし特に優れていた。この釈迦族の一つたる迦毘羅の国王の子として、御生れになったのが釈迦牟尼である。

伽耶城】釈迦成道の地に近いところにある中インド摩竭陀国の都城である。現在のインド、べンガル州べトナ市の西南方百粁にある伽耶市はこの地に当る。この南方十余粁に成道の地である仏陀伽耶がある。

道場】寂滅道場のこと。釈迦が始めて成道した場所であり、ここで華厳経を説いたといわれる。

阿耨多羅三藐三菩提】仏の智慧、さとりのこと。

我実に成仏してより已来】我実成仏已来は本果妙の文である。本門文上の釈迦は久遠実成といって五百塵点劫の昔に成仏した。しかし、文底の大聖人様は久遠元初といって、無始の昔より御本仏であられた。

御義口伝(七五三頁)に云く、

「……我実と(ひら)けたる仏にして已も来も無量なり無辺なり、百界千如一念三千と説かれたり、百千の二字は百は百界・千は千如なり此れ即ち事の一念三千なり、今日蓮等の類い南無妙法蓮華経と唱え奉る者は寿量品の本主なり、惣じては迹化の菩薩此の品に手をつけいろうべきに非ざる者なり、

彼は迹表本裏・此れは本面迹裏・然りと雖も而も当品は末法の要法に非ざるか其の故は此の品は在世の脱益なり題目の五字計り当今の下種なり、然れば在世は脱益滅後は下種なり(よっ)て下種を以て来法の(せん)と為す云云」

無量無辺百千万億劫】無量.無辺、百、千、万、億は、いずれも三千年前におけるインドの数字である。一劫とは八百万年である。すなわち、八百万年に無量を掛け無辺を掛け百を掛け千を掛け万を掛け億を掛けただけの年数。

三千年前のインドの数字は、大乗と小乗によって違うが、十進法、百進法、べキ進法(倍倍進法)などがある。たとえば万の十倍を億とする(御書はそうである)のは十進法、万の万倍を億とするのはべキ進法である。とにかく、那由佗は十進法では現在の千億のことであるが、その他の、「無量」「無辺」「阿僧祇」「微塵」「不可思議」などという数字は、宇宙時代といわれる現在の数字でも考えられぬような天文学的な無数の数である。

五百千万億那由佗阿僧祇】五に百を掛け千を掛け万を掛け億を掛け那由佗を掛け阿僧祇を掛けた、とんでもなくデカイ数である。仏教典の数は掛けた数である。すなわち三七日といえば、三に七を掛けた二十一日のことである。以下同じ。

三千大千世界】三千年前のインドの宇宙観である。仏教では太陽、月、四州(地球)等を含むものを一世界とし、これを、千倍したものを小千世界、さらにこれを千倍したものを中千世界、さらにこれを千倍したものを大千世界または三千大千世界、または三千世界という。そして宇宙にはこのような三千大千世界が数限りなく存在するというのである。

ところが、現在の天文学では、われわれの住む地球は土星や火星などとともに太陽という恒星(自ら光る星)のまわりを廻っている惑星であるという。そして夜空に輝く星はすベて太陽のような恒星であり、銀河系宇宙は直径約一〇万光年(一光年とは光が一年かかって進む距離。光は一秒に三〇万粁即ち地球を七廻り半する)厚さは中心部で約一万五千光年の円盤の形をしているが、その中に約一千億箇の恒星をふくんでいるという。また大宇宙には、この銀河系宇宙やアンドロメダ星雲のような直径十万光年もある小宇宙が、なんと三十億箇も存在するというのである。これは今世界で一番大きい、アメリカのパロマ天文台の二〇〇インチ(約五米)望遠鏡で見える限界の半径二〇億光年内の数である。

数こそ違え、このような三千大千世界という考え方は、現在の天文学とも一致するのである。キリスト教のような低級きわまる考え方とくらべると面白いではないか。すばらしいではないか。

抹して微塵と為して】こまかく、すりくだいて、無数のチリとして。

思惟し校計して】頭で考えて、計算して。

算数の知る所に非ず】算術(数学)で計算してもわからない。

心力の及ぶ所に非ず】心の中で考えてもわからない。

声聞・辟支仏】方便品第二のところで前述した。辟支仏とは縁覚をいう、縁覚は独覚ともいい、仏のいない世界に出て、飛華落葉などの現象を見てこれを縁として空理を悟る境涯である。

無漏智】無漏とは煩悩のなくなったこと。煩悩がなくなれば、物事を正しく分別し判断することができるというので、無漏智という。声聞縁覚の悟りである。もちろん御本尊様の智慧からみれば、くらべもののならないほど低いものである。

限数】限りの数。おしまいの数。

阿惟越致地】阿毘跋致と同じ意味で、不退地と訳す。非常に長い間、菩薩の修行を重ねて、その信解は不退転であるとの確信をえたもので、必らず仏になると定まった地位である。

今当に分明に汝等に宣語すベし】今かならず明らかにわかりやすく、お前たちに説いて聞かせよう。

娑婆世界】娑婆は梵語で、訳せば勘忍ということである。現在われわれの住むこの世界のこと。勘忍世界というのは、貪瞋癡の三毒が強盛の人人が住んでいて、仏法で幸福にするのに多くの苦悩を勘忍(たえしのぶ)しなければならないからであるという。

導利】法を説いて衆生をみちびき利益する。

中間】文上の釈迦仏法では、我実成仏已来といって過去久遠を明されている。その久遠実成の時より、インドに釈迦牟尼仏として出現するまでの間を指す。この間において種種の仏として出現しているのである。しかし、文底の仏法からいえば、大聖人様が久遠元初に御本仏であられた時から、末法に御出現になられた時までを中間という。故に久遠実成の釈迦も三千年前にインドに出現した釈迦も、あらゆる仏はすべて久遠元初自受用身の分身仏であり、すベて出現の時は中間となるのである。

然燈仏】法華経序品に説かれる、過去の日月燈明仏の八王子の中の末子である。他の七王子と共に、父の高弟たる妙光に従って法華経を修行し、八王子が次第に成仏して、最後に成仏した仏である。生まれた時に身の光りが燈のごとくであったために名づけられ、成仏の後もこのように称した。釈尊因位の時に、儒童菩薩として蓮華を供養したのは、この仏である。然燈仏は既に釈尊の師であって、文殊の八代の弟子(文殊は当時の妙光のこと)であるところから、文殊を釈尊の九代の師という。

寿量品の文上では、然燈仏は久遠実成の釈迦が中間(前項参照)に出現した仏ともなるが、文底の仏法では、この然燈仏も久遠実成の釈迦も、共に久遠元初の自受用身が中間において、分身仏として出現した仏である、ということになる。然燈仏等の等とは、中間にあらわれた、あらゆる仏を意味するのである。

【涅槃】滅・滅度・寂滅・解脱・円寂等と訳す。生死の境を出離するのを涅槃という。また自由・安楽・清浄・平和・永遠等をそなえた幸福境で、慈悲・智慧・福徳・寿命の万徳をそなえている理想的境界である。故に一般に成仏して死ぬことを涅槃というのである。ここは、その死ということである。

小乗では単に煩悩を断じ、灰身滅智した境界を涅槃とし有余・無余の二種の涅槃を説く。しかし大聖人の下種仏法では、生死即涅槃と説き明されている。

分別】物ごとを、よくわきまえ知ることである。思慮分別などという。弁別などと同じイミである。仏の出現や死ということは、みな方便をもって、わからせたのだということ。

日蓮大聖人は死について「生死の理を顕さんがために、死を現ずる」とおっしゃっている。

来至】やって来ること。

仏眼】五眼の中の一つである。五眼とは、①肉眼②天眼③慧眼④法眼⑤仏眼である。仏眼とは、仏のそなえているもので、宇宙の実態をすべて知り、真実中道に安住している智慧の眼である。仏は他の四眼も、ともに、そなえており、自由自在に用いるのである。文底の仏法では、御本仏の智慧の眼である。さらに、残りの四眼を一応説明すれば、

①肉眼とは、肉体がもっている眼である。

②天眼とは、天界の人がもっている眼で、遠いところでも、近いところでも、昼でも、夜でも、内でも、外でも、見ることができる。人も訓練をつめば、このような眼をもっことができる。

③慧眼とは、二乗の人が、空無相の理を達見する智慧の眼である。

④法眼とは、菩薩がいろいろな法に達して誤りなく、一切衆生を救うために法門を照了する智慧の眼である。

信等の諸根】信根などの五根ということである。五根というのは、釈迦仏法で菩薩行をはげむときに、特に大事な条件として、五大別したものである。修行の根本になるから、根という。すなわち①信根②精進根③念根④定根⑥慧根である。

①信根とは、仏の説くことを固く信じて、決して疑わぬことである。

②精進根とは、信心や修行や教学において、学んだことに心を打ちこみ、よく考え、熱心に実行していくことである。

③念根とは、信じてえたことを忘れず、邪義が入りこまぬように、深く心をつかうことである。

④定根とは、自分が信じた正法を最後まで信じきると決定し、絶対に魔にまけないことである。

⑤慧根とは、このようにして、だんだん信解が進んでくると、智慧の力が進んでくるのである。すべて頭がよくなるのである。

このような五根は、文底の仏法において、御本尊様を信ずる上に、必要なことである。

利鈍】仏は人人の五根が、立派であるか、まずいか、そのていどを明らかに見定めるというのである。天台では、慧根を了因、余根を縁因とし、この二善根に利鈍あり、通じて頓漸の機縁を摂する、小乗の根は鈍で大乗の根は利、二乗の根は利で人天の根は鈍だなどといっている。文底の仏法では、御本尊様は、われわれの信心の利鈍をごらんになって、罰と利益をもって正しい信心にみちびかれるのである。

度すベき所に随って】度すとは、化導して救うこと。その人の状態に応じて化導するということ。

処処に】いろいろな場所で、いろいろな時に。すなわち過去に出現した国土、十方の国土をいう。

名字の不同】いろいろ違った仏の名前ということである。天台では、仏の形が異なるから名も同じではないといっている。文上の釈迦仏法では、久遠実成の仏が、大通智勝仏とか然燈仏とか薬師如来とか、いろいろ名前を変えてあらわれ、人人を救ったという。

文底の仏法では、久遠元初の自受用身が、上行菩薩とか、日蓮大聖人とか御本尊様として再誕し、久遠実成の釈迦とか、いろいろ名前を変えて垂迹して出現されたことをいう。

年紀の大小】仏がその世で、教化にあたられる年月には、長い短いがあるということである。天台では二仏の寿に量と無量とがあるといっている。

インドの釈迦は在世の説法が五十年で、正法時代が一千年、像法時代が一千年である。過去の迦葉仏は、寿命が二万才、弥勒仏は八万才であったという。

日蓮大聖人は御在世中は、三十二才の立宗から六十一才の御入滅まで、三十年間南無妙法蓮華経を説かれ、その功徳は末法万年はおろか尽未来際までも流れるのである。