語訳(妙法蓮華経方便品第二)
【爾の時】文上では、釈迦が序品第一の無量義処三昧から起たんとする時。文底では、末法の時。
【世尊】仏と同じ。仏の十号の一つ。仏は世界で、もっとも尊い人であるから、世尊と名づける。文上(釈迦仏法)より読めば法華経迹門の釈迦、文底より読めば末法御本仏、日蓮大聖人様のこと。
【三昧】梵語である。訳せば、定、正受、調査定、等持、等念などという。心を一処に定めて動かさぬこと、文上では無量義処三昧をいう。そのほか、法華三昧、仏印三昧、師子奮迅三昧、念仏三昧など釈迦一代経中には無数に三昧がある。文底では、三昧とは、われわれが一心に御本尊様を拝んでいる境地である。
【安祥として】安らかで静かに、
【舎利弗】釈迦の十大弟子の第一で、智慧第一といわれる。アミダ経で三十余度も名を呼ばれても成仏できなかったが、迹門方便品の対告衆となり、譬喩品で信をもって成仏し華光如来と記された。王舎城の北の那羅のバラモン族で、目連と共に外道を学び各々百名の弟子をもっていた。小さいときから頭が良く、八歳で王舎城中の学者と闘論して負けなかったという。釈迦が成道して第二年目に、仏に帰依して、その上首のアラカンとなった。釈迦の死ぬ悲しみを見るに忍びず、釈迦が死ぬ前に故郷に帰り、母を折伏した後に死んだ。釈迦は大いにほめて塔を建てて供養したという。過去世に乞眼のバラモンの責めにたえかねて、六十劫の菩薩行を退転したことは有名である。文底からいえば舎利弗は末法の衆生ということ。
【諸仏の智慧】あらゆる仏が自ら覚られた智慧をいうのである。文上の天台学では、この諸仏の智慧は実智と権智がある中でも実智である等という。文底から読めば、要するに、御本尊様の広大無辺なる智慧をいうのである。天台の文上の読み方は所破といって、完全に打ち破って捨て去らなければならない。われわれは借文といって文を借りて文底から読んで、大聖人様の仏法をあらわすのである。以下の語句も、そのように心得べきである
【甚深無量】その智慧が非常に深くて、量りがたいという、ほめたたえた言葉。縦には永遠にわたって深い智慧であるから甚深といい、横には全宇宙にわたって広い智慧であるから無量という。
【其の智慧の門】天台では、家に入るのに門から入るように、仏の教えに方便の教えがあり、それが権智であるという。また道前を権、道中を実としている。文底より読めば、大聖人様の仏法には方便権教は全くないから、折伏されて信心をする時のことをいう。
【難解難入】天台では、釈迦の方便の教えは、人の機根に合せて説かねばならぬから、めんどうで普通の人にはわかりがたく入りがたいという。大聖人様の仏法には、方便の教えはないから、文底より読めば、折伏されても、正宗の正しさを知り、邪宗をすてて入信することは、むずかしいという意味である。
【声聞】十界の一つ。二乗の一種。理論をつかむことに喜びを感じ、自分の幸福のみを考えるような境涯の人。釈迦仏法では舎利弗や目連などがそうである。現在では学者階級などがそうである。
【辟支仏】縁覚のこと。十界の一つ。二乗の一種。何かの縁にふれて悟りを感じ、自分だけ楽しむような境涯の人。現在では一芸に秀でた名人上手や大家などが、そうである。
【知ること能わざる所なり】知ることができないものである。
【所以は何ん】そのわけは、どうかといえば。
【仏】文上では釈迦、文底では日蓮大聖人様。
【百千万億無数の諸仏に親近し】百千万億無数とは、百に千を掛け万を掛け億(十万のこと)を掛け、無数を掛けた大きな数。文上では、釈迦はそれだけ多くの仏のひざもとで修行したというが、文底では御本尊様はそのような修行は全然しないで、もともと無始いらい御本仏であらせられる。
【無量の道法】文上では、覚りをうるために必要な一切の修行をいうのであり、無量とは横に量りがたいほど広く大きいことをいう。しかし、文底の仏法からみれば、ただ御本尊様を信じて拝み、折伏を行ずることである。
【勇猛精進】勇ましく元気にはげむことである。文上の釈迦仏法では歴劫修行といって、永遠に近いほども長くいろいろの修行を積んで始めて仏になれるのである。しかし、文底の大聖人様の仏法では、ただたゆまず御本尊様に南無妙法蓮華経と唱えて折伏にはげむことである。
【名称普く聞えたまえり】名前が世間にひびきわたったというのである。文上では釈迦の名前がとどろいたのである。文底から読めば、末法御本仏日蓮大聖人様の御名、また広宣流布一筋に生きる学会の名前が全世界にひびきわたったのである。
【甚深未曽有の法】甚深とは永遠の長きにわたって縦に深いのである。未曽有とは、まだ昔から誰も説かなかったということである。非常に深い哲理をもって誰も説きえなかった法とは、文底からいえば、日蓮大聖人様の仏法、三大秘法である。
【成就】日蓮大聖人様が三大秘法の建立を完成されたこと。中でも戒壇の大御本尊様を建立遊ばされたことが、成就である。
【宜しきに随って説きたもう所】文上の釈迦仏法では、聞く人の機根に応じて、それぞれ、もっとも適切な教えをあたえられたというのである。しかし、文底の大聖人様の仏法では、どんな人に対しても最高の南無妙法蓮華経のみをズバリと説くのである。
【意趣解り難し】仏様のお考えは、なかなかわかりにくい。文上では釈迦のいろいろな方便の使いわけ方がわかりにくいというのである。しかし文底の仏法では、大聖人様が「これを知れるは日蓮一人なり」といわれたごとく、邪宗は人を不幸におとすから止めよという大聖人様の大慈悲と大哲学が、邪宗の連中にはわからないのである。
【吾成仏してより已来】自分が仏になってから今まで、迹門文上では、釈迦は三千年前にインドで始めて仏になったと説いている。文底の仏法では、日蓮大聖人様が久遠元初という無始の昔に御本仏であったときから今まで、となる。
【種種の因縁】いろいろな因縁話。文上では、釈迦は四十二年間にいろいろ方便の因縁話を説いた。
しかし文底では、大聖人様は方便教は全然説かないで、ただ南無妙法蓮華経のみである。
【種種の譬喩】いろいろな、たとえ話、文上では、釈迦はいろいろな、芭蕉とか、水泡とか、鏡とか、幻などの小乗大乗のたとえ話をもって、頭の悪い釈迦仏法の人たちに教えた、しかし文底の仏法では、方便のたとえ話は説かれない。強いていえば、御書に仰せの御指導のごとく、独一本門の立場における譬喩である。
【広く言教を演べ】ただ一法から広く多くの義を出して説法する。文上では一法とは文上の法華経二十八品である。文底の仏法では、一法とは南無妙法蓮華経である。
【無数の方便】たくさんの方便。文上では方便とは七方便のことだという。七種の方便とは、蔵教の声聞、縁覚、菩薩と、通教の声聞、縁覚、菩薩と、別教の菩薩をいう。しかし、文底の仏法では、このような方便は少しも必要でない。
【衆生を引導して】教えを説いて衆生を幸福な生活にみちびく。文上では釈迦は七方便にいろいろな方便権教を説いてみちびくのである。しかし文底の仏法では、ただ南無妙法蓮華経の一法を説いて成仏の直道にみちびくのである。
【諸の著を離れしむ】文上では、釈迦はいろいろ多くの執着を離れさせたのである。しかし、文底の仏法では、いろいろ多くの執着を明らかに見させるのであって、離れさせるのではない。御義口伝(七七三頁)に云く、『離の字をば明とよむなり』と。
【如来】仏のこと。文上では、インドで始めて成仏したという迹門の釈迦。文底の仏法では、末法の御本仏・日蓮大聖人様のことである。
【方便】釈迦仏法では、方法の意味。または目的を達するための手段の意味。法用方便、能通方便、
秘妙方便の三方便が説かれているが、法華経の方便は秘妙方便である。文上迹門の仏には、そのようなものがある。しかし、文底の仏法では必要のないことである。
【知見波羅密】知見とは三智五眼をもって諸法の事理性相などを徹見すること。波羅密は度と訳し、煩悩の中を通りすぎて覚りを得る道をいう。知見波羅密がそなわっているというのは、仏智を成就せられたということである。文上の仏法ではこのような権実の二智をいうが、しかし文底の仏法には必要のないことである。
【皆已に具足せり】文上では、権実の二智が、すベてそなわっていることをいう。文底の仏法では、御本尊様に題目を唱えるだけで、権迹本の仏の因行果徳がすベてそなわることをいう。
【広大深遠】広大とは横に広く大きく、全宇宙にわたること。深遠とは、縦に深く遠く、永遠にわたること。
【無量】四無量心のこと。楽しみをあたえる慈心、苦しみを除く悲心、歓喜の心を起させる喜心、愛憎を除く、捨心の四心である。この四心で無量の衆生に、無量の功徳をあたえるので四無量心といい、仏はいつもこの心をもっている。しかし、文底の仏法には必要がない。御本尊様には権迹本の仏の因行果徳の二法がすべてそなわっているからである。以下も同じ。
【無礙】四無礙のこと。仏がいろいろの法を自由自在に説かれる智慧の力。法無礙、義無礙、言辞無礙、楽説無礙の四っである。
【力】仏のそなえている十力のこと。
十力とは、
一、知是処非処智力
二、知三世業報智力
三、知諸禅解脱三昧智力
四、知諸根勝劣智力
五、知種々解智力
六、知種々界智力
七、知一切至処道智力
八、知天眼無礙智力
九、知宿命無漏智力
十、知永断習気智力
【無所畏】仏が自由自在に教えを説かれて畏るる所がないこと。一切智無所畏、漏尽無所畏、説障道無所畏、説尽苦道無所畏の四無所畏がある。
【禅定】心が一つに定まって、散乱しない状態をいう。われわれが御本尊様を一心に拝んでいる境地は最高の禅定である。
【解脱】一切の惑いや、一切の苦しみを離れた状態。成仏したときの力強い境涯である。
【深く無際に入り】縦に深いことをいっている。
【一切未曽有の法を成就す】横に広大なることをいっている。
【種種に分別し】教えを聞く者の力に応じて、適当に説き分けること。文上では釈迦が権教を説いたことをいっている。しかし、文底の仏法では、大聖人様はただ南無妙法蓮華経の一法のみを説かれたのである。
【言辞柔軟にして】言葉やわらかに教えを説くさまである。文上では釈迦が実教を説いたことをいう。しかし、文底の仏法では、折伏は厳父の慈悲から発するのであるから、言葉はやわらかではない。
【悦可せしむ】喜ばせる。
【要を取って】要点をとって。
【無量無辺未曽有の法】文上では、無量無辺は権教をあらわし、未曽有は実教をあらわすという。しかし、文底の仏法では、御本尊様をほめたたえている言葉で、御本尊様は量り知れない広大無辺な功徳をもち、大聖人様以外には説かれなかったものである。
【復説くべからず】文上では、釈迦は、この法はわかりにくい法で言葉には限りがあるから説きつくせないのだといっている。このように釈迦が方便品の始めから、誰れも質問しないのに説いてきた説き方を、無問自説という。しかし、文底の仏法では、大聖人様は三大秘法を余すところなく説いて下さるのである。
【第一希有難解の法】最上第一の法であり、仏もメッタに説かぬマレなる法であり、仏よりほかにはわかりにくい法。文上では、横に満ちて説きえない大法なることを明すという。文底の仏法では、大御本尊様の広大なる法をほめたたえているというべきである。
【唯仏と仏と】仏の境涯は仏でなければわからないというのである。文上では唯仏与仏以下は縦に深く説きえない大法なることを明すという。文底の仏法では、末法の御本仏・日蓮大聖人様の御境涯は第二祖日興上人様のみが知っておられたので、御開山様を唯仏与仏とほめたたえて申しあげる。
【乃し能く諸法の実相を究尽したまえり】仏となって始めて、よく世の中の一切の真の姿をきわめつくされた。
【如是相】そのものの外に現われている相貌。
【如是性】そのものの内に具えている性質、性分。
【如是体】そのものの実体、主質。
【如是力】そのものの及ぼす力、功徳。
【如是作】そのものの作用、構造。
【如是因】変化をおこす原因。習因。
【如是縁】因を助けて変化させるもの。助因。
【如是果】因と縁によっておこる結果。習果。
【如是報】その果が他におよぼす作用。報果。
【如是本末究竟等】如是本末究竟して等しと読む。如是相より如是報までの九如是が、どんな物にも一しょに具わっていて、少しも狂いがない。