妙法蓮華経如来寿量品第十六 (5) 本文解釈 三妙合論について
三妙合論について
寿量品に三妙合論の説があります。三妙とは本因の妙、本果の妙、本国土の妙であります。
文上において、寿員品の上からみますと「我実成仏巳来」が本果の妙であります。
しかも、仏は浄土のみにいらして、裟婆世界にはおられないというのが、法華経以前の学説であります。
しかし、寿量品には「娑婆世界」という本国土妙が説かれています。それは仏が娑婆世界に、凡夫と共に、菩薩と共に、また声聞縁覚と共に、あるいは畜生・餓鬼などと共に、みな一緒に十界おのおの同居している。この不思議さを本国土の妙といいます。仏の本国というものは娑婆世界であるというのです。
しかもその仏の境涯を得るのは本因があり、それが「我本行菩薩道」というところがそうであります。
「我実成仏已来」、これは仏の本体です。すなわち、文底よりこれを論じますと、御本尊に当ります。これを文上においては「五百千万億那由佗阿僧祗の三千大千世界があってこれをすり潰して粉として」というところが、御本尊様の境智をおっしゃっているのであります。
すなわち文底からこれを論じますと、大宇宙即御本尊であり、南無妙法蓮華経の生命というものは、「我実成仏已来」我れ仏を得てよりこのかた、仏様になってよりこのかた大宇宙と共にある、と読むべきが文底であります。
しかも娑婆国土以外には、本当の仏はいらっしゃらない。娑婆に仏がおらなかったならば、そんな仏は迹仏であり、権仏である。娑婆世界におられる仏こそ、真実の仏である。
その仏になるには、みな菩薩の道を行じたのである。「我本行菩薩道」です。しかし、これを文底より論じて行くところに、本果妙の釈迦仏法と、本因妙の教主釈尊との相違が、はっきりしてくるのです。
というのは、文上から、これをこのまま眺めても、「我実成仏已来」ということはすなわち御本尊の本体であります。ですから、この御本尊の本体を本体として、釈迦が姿を現じておる。ですから、本果の世界を現わしているのです。
ところが大聖人になりますと、仏自体の立派な姿を現じられないのです。すなわち、仏になる本因を論じ、仏になる本因を行ずるのです。ですから本因妙の仏という以外にないのです。大聖人様が生れながらにして御本尊の体を現わし、御本尊の行を行じられたならば、それは菩薩道でなくなるのです。
普薩道というのは、菩提薩唾と申しまして、仏になる道を行ずるのをいうのです。
御書のどこを拝読いたしましても、われ仏になって、霊山でお前らを救ってやるとか、これだけの難を忍ベば、私がその中に仏になれると書いてはいないのです。
大聖人様の御行動は、本地内証の位においては、仏でいらせられても、行ずるところは、菩薩道です。その菩薩を一括して、すなわち文上でいえば、五十二段の本因初住の文底にあるところの南無妙法蓮華経という、仏の本体を直接信じて、われわれは仏になるのですから、大聖人様の仏法は本因の妙なのです。
故に大聖人様を本因の仏と称し、寿量文上の仏をもって本果の仏と称し、ここに本果妙と本因妙の区別があるのであります。