妙法蓮華経如来寿量品第十六 自我偈 (5) 本文解釈の33,34
33
是諸罪衆生。以悪業因縁。過阿僧祇劫。不聞三寶名
【是の諸の罪の衆生は 悪業の因縁を以て 阿僧祗劫を過ぐれども 三宝の名を聞かず】
(文上の読み方)
通解にあり(22頁上段6行~8行)
(文底の続み方)
この前に、憂怖諸苦悩という言葉があります。憂いとか、悲しみとか、苦しみとか、悩みがある衆生というものは、阿僧祗劫という長い間をすぎても、真の三宝の名前を聞かないで、誤まれる邪宗の三宝を信じている。だから、この世へ生まれてきて、あらゆる苦しみを、しなければならないというのです。今の日本の民衆というものは、みな憂怖諸苦悩にみちている。生きているのが嬉しい、生きているのが楽しいという者はいない。悲しんだり、あるいは憂えたり、あるいはは苦しんだり悩んだり、中には怒ったりしている者もある。これはみな、真の三宝の名を聞かないからだという結論であります。
その三宝というのはなんであろうか。これは仏・法・僧と申しまして、仏の宝・法の宝・僧の宝をいうのです。邪宗教と当日蓮正宗との相違は、三宝の立て方によって分れているのです。邪宗日蓮宗では、仏の宝を・五百塵点劫久遠実成の釈迦如来としております。次は、法の宝を南無妙法蓮華経、日蓮大聖人は僧の宝も邪宗教では立てるのです。
しかし、この邪宗の立て方は、人法一箇の仏法定理に反しているデタラメであります。また文上の釈迦は四味三教という方便教をもつ仏で、南無妙法蓮華経とはいえない。三宝を間違えることはコワイことであり「日蓮を用いぬるとも悪しく敬わば国亡ぶべし」の御金言のごとく、大罰をまねくのである。
しからば、いかなる三宝の立て方がよろしいのか。いうまでもなく、当日蓮正宗では、仏の宝は日蓮大聖人、法の宝は南無妙法蓮華経、僧の宝は御開山日興上人と立てております。だから、憂怖諸苦悩がないわけになるのです。これが、各邪宗教と日蓮正宗の相違であります。
34
諸有修功徳。柔和質直者。則皆見我身。在此而説法。或時為此衆。説仏寿無量。久乃見仏者。為説仏難値。我智力如是。
【諸のあらゆる功徳を修し 柔和質直なる者は 則ち皆我が身 此に在って法を説くと見る 或時は此の衆の為に 仏寿無量なりと脱く 久しくあって乃し仏を見たてまつる者には 為に仏には値い難しと説く 我が智力是の如し】
(文上の読み方)
通解にあり(22頁上段8行~15行)
(文底の続み方)
ここは三宝を拝んだ者の功徳を説いています。三宝とはすなわち大御本尊に全部含まれるのです。あらゆる功徳を修するということは、御本尊様を朝五座・晩三座ときちんと拝んで、折伏することです。
次に、柔和ということは、御本尊様に対する信心が素直ということです。質直というのは、正直ということです。正直にも二色ありまして、世法の正直と、仏法の正直とあるのです。仏法上の正直ということは、大乗に柔順なことをもって正直というのです。御本尊にむかって、柔和で、正直で、他の経文を絶対にやらないのです。
そういう境涯になれば、御本尊様が、事実この世にあって、常に法を説いているということがわかり、その功徳は絶大であります。そのときには、仏の生命、大聖人様の生命は無量である。われわれの生命も永遠である。このことが悟られてくる。
しかるに、われわれは、この仏には値い難いものである。その値い難い仏に値えたということが、しみじみと判ってくるときに、歓喜が涌いてくるのです。いつだって拝めるなんていってたらダメなんです。この次の生命において、お値いできるかどうか判らないのです。よく、お値いできたという歓びに、燃え立たなければいけないとは思うのであります。