妙法蓮華経如来寿量品第十六 自我偈 (5) 本文解釈の30,31
30
我時語衆生。常在此不滅。以方便力故。現有滅不滅 餘國有衆生。恭敬信樂者。我復於彼中。爲説無上法
【我時に衆生に語る 常に此にあって滅せず 方便力を以ての故に 滅不滅ありと現ず 余国に衆生の 恭敬し信楽する者あれば 我亦彼の中に於て 為に無上の法を説く】
(文上の読み方)
通解にあり(21頁上段7行~14行)
(文底の読み方)
仏の力用を説いたところであります。この我はいつも仏様即ち御本尊様です。大聖人様が題目を唱えられ、われわれを化導なさったことです。決して御本尊様というものは滅しないものである。此とはいつでも娑婆世界です。すなわち、われわれの生命の中に、いつも御本尊様がいらせられるのです。しかし、方便の力をもって、滅不滅あるを現じている。すなわちこれを生命論でいえば、われわれの生命は、この大宇宙において厳然として生きている、方便として、滅不滅を現じているにすぎないというのです。
そうして、今この地球外の余国に衆生があって、同じく法を求むるならば、彼らの心の中に、生命の中において、また無上の法、南無妙法蓮華経を説くというのです。この仏法の宇宙観は地球だけに限っていないのです。地球と同じものが、地球上においてわれわれが生存していると同じ状態のものが、大宇宙にはいくつもあるという考え方です。これは今の天文学でもいっていることです。他の仏国土に衆生があって、仏を求めるならば、そこでまた無上の法、三大秘法の南無妙法蓮華経を説くというのです。余国の仏も、ことごとく南無妙法蓮華経の分身仏であると、決めつけたお言葉です。
31
汝等不聞此。但謂我滅度。我見諸衆生。没在於苦海。故不爲現身。令其生渇仰。因其心戀慕。乃出爲説法。神通力如是。
【汝等此れを聞かずして 但我滅度すと謂えり我諸の衆生を見れば 苦海に没在せり 故に為に身を現ぜずして其れをして渇仰を生ぜしむ其の心恋慕するに因って乃ち出でて為に法を説く神通力是の如し】
(文上の読み方)
通解にあり(21頁上段14行~下段6行)
(文底の読み方)
ところで、衆生は仏が大御本尊様がただ滅度してると思い常住しているということを信じない。すなわちわれわれの生命の中に、仏が住まっているということを知らないというのです。これを、われわれの生命を離れてみれば、インドであろうと、支那であろうと、朝鮮であろうと、大御本尊様は厳然としていらっしゃる。しかし、信心をしない者は、永く仏はおらないと思っているのです。思っているが故に、彼らの生活は苦しみの世界におるのです。
苦しみの世界から抜けだしたいと思うならば、大御本尊様を拝し奉って、仏様は滅度してはいない、ここに厳然としていらっしゃる、そうして苦海に没在している、われわれ衆生を救って下さるのだという確信に、立たなければならないのだと思うのであります。
われわれをお救い下さるために、現身をお現わしにならない、仏様がいらっしゃるということを、はっきりと判らせないようにしてあるのです。ところが、その苦しみの世界から渇仰を生じて恋慕することが因となって、御本尊様は仏様は現われて説法なさるのです。御本尊が現われて説法するとは、すなわち功徳が現われるということであります。このように、御本尊の神通力というものは、広大無辺のものであります。
「お前は、こういう商売をやれ、お前の商売のし方が悪いから、そんなになるのだ」「こうせねばならん」「ああせねばならん」と心に教えて下さるのであります。