自我偈 (5) 本文解釈の29
29
一心欲見佛。不自惜身命。時我及衆僧。倶出霊鷲山
【一心に仏を見たてまつらんと欲して 自ら身命を惜しまず 時に我及び衆僧 倶に霊鷲山に出ず】
(文上の読み方)
通解にあり(21頁上段2行~6行)
(文底の読み方)
このところは、三大秘法の依文とされております。
"一心欲見仏、不自惜身命"これは本門の題目になります。"時我及衆僧、倶出"が本門の本尊。"霊鷲山"が本門の戒壇になります。
即ち図示すれば、
一心欲見仏、不自惜身命……本門の題目
時我及衆僧、倶出 ……本門の本尊
霊鷲山 ……本門の戒壇
心が素直になって、一心に仏を見奉らんと欲して、あえて身命を惜しまない。この時に、大聖人様が衆僧と一しょに霊鷲山に顕われる。われわれの体が霊鷲山になる。そこで、大聖人様即大御本尊様の力が、われわれの体に、満ち満ちてくるのです。
なぜ三大秘法になるかといいますと、一心に仏を見たてまつらんと欲して、自ら身命を惜しまずという信心の姿は、題目を唱えることです。不自惜身命の心がなかったならば、題目は唱えられません。暴力なんかやったことがなくて、逆に暴力をやられているのに、「創価学会は暴力だ暴力だ」なんて悪口をいわれる。
折伏に行って賞められた覚えがないでしょう。ですから、自ら身命を惜しまずの心がなかったならば、広宣流布はできません。人に悪口をいわれたり、なぐられたくらいで、へこんでしまうくらいなら、最初からやらない方がいいのです。
我及び衆僧と倶にとは、御本尊様であります。この時は、末法の時と読むのです。我は仏です。及は菩薩、衆僧は二乗、倶出は六道です。南無妙法蓮華経日蓮とは我、及とは釈迦多宝の二仏と上行等の四菩薩。その他の舎利弗等の方々が衆僧です。御本尊様には南無妙法蓮華経日蓮とお認めになっている。そうして多宝如来と、釈迦牟尼世尊と二仏並座して、両方に、上行・無辺行・浄行・安立行。その下に、薬王菩薩その他提婆逢多まで、十界の衆生を代表して、きちっと現われています。ですから、この時我及衆僧、倶出を、本門の本尊と読むのです。
次に、霊鷲山を本門の戒壇というのは、霊鷲山とは仏のいます所をいうのですから、われわれの御本尊を飾ってある場所も、霊鷲山です。その霊鷲山に不幸があるわけはないのです。ただし、信心の厚薄によるのであります。
これは、三大秘法がもうすでに、釈迦時代にも、このように説かれておって、大聖人様の時においては、はっきりと打ち出されてきているのです。