妙法蓮華経如来寿量品第十六の講義  (5) 本文解釈の22

 

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作是教已。復至佗國。遣使還告。汝父己死。是時諸子。聞父背喪。心大憂悩。而作是念。若父在者慈愍我等。能見救護。今者捨我。遠喪佗國。自惟孤露。無復恃怙。常懐悲感。心遂醒語。乃知此藥。色香味美。即取服之。毒病皆愈。其父聞子。悉已得差、尋便來帰、咸使見之。

 

【是の教を作し巳って復佗国に至り、使を遣わして還って告ぐ、汝が父已に死しぬと。是の時に諸の子、父背喪せりと聞いて心大いに憂悩して、是の念を作さく、若し父在しなば我等を慈愍して能く救護せられまし。今者我を捨てて遠く佗国に喪したまいぬ。自ら惟るに孤露にして復恃怙なし、常に非感を懐いて心遂に醒悟し、乃ち此の薬の色・香・味美きを知って、即ち取って之を服するに毒の病皆愈ゆ。其の父、子、悉く已に差ゆることを得つと聞いて、尋いで便ち来り帰って威く之を見えしめんが如し】

 

(文上の読み方)

 この経文の上では、使の人が子供らに会って「お前の父はもう死んだ」という。子供らは、父の死んだのを聞いて、心に大いに憂いをもったというのです。これはどういうことかといいますと、印度では、支那でもそうですが、日本の今の制度と違いまして、父親というものが、みんな子供の恃みどころなのです。父親が亡くなりますと、財産が子供にきちんと渡ればいいのですけれども、渡らない場合には、一家が没落しなければならない。また親が亡くなると、たのみどころがなくなってしまう。そこで、「もし父がおったならば、われらを加護してくれるだろう。父が死んでしまっては、自分はたった一人ぼっちだ」といって悲しみついに目がさめるのであります。

 

(文底の続み方)

 そこで、この教をなしおわって佗国へ行かれたということは、大聖人様が御涅槃になったということです。そして、使をつかわされたということは、別しては、代々のお山の御法主上人睨下であります。

 また総じては、大聖人様の御精神を奉じて折伏を行ずるわれわれであります。われわれは大聖人様の御使いであります。何を臆することがありましようか。その大聖人様の使いが、貧乏だと泣いたり、借金をしたかったり、それでは、使いとはいえません。

 この信心に反対する人は、生活に確信がもてなくなるのであります。ほかの何にすがっても、自分を守ってくれるものがないのであります。「自ら思うのに孤独にして頼むところなし」とは、われわれの信心する前の姿ではなかっただろうか。

 

 昔の歌に「おちぶれて袖に涙のかかるとき人の心の奥ぞ知らるる」というのがあります。商売がうまくいっているときには、友だちも沢山できる。しかし、いよいよ貧乏してしまい、商売はうまくいかず、あっちも借金、こっちも借金というときには、自ら思うのに孤独です。どこへ行っても、金は貸してくれない。これが、まだ金の話だからいいけれども、いよいよ病気で死ぬというときにきたらどうする。自ら思うのに孤独でしょう。誰も頼りになりません。本当に、またそれが妙チクリンな姑であったら、早く死んでくれなんて向うで拝んでいるかもしれない。誰を頼りにしますか。始めてその時に悲しみを覚え、罰を感じて目がさめるのであります。

 

 そして、ついに信心する決心をして、この御本尊様を拝むならば、ことごとく悩みが解決したのであります。たとえ話では、この父は死んだのではないのだから、子供たちがことごとく病気がなおったのをみて、おれは死ななかったといって出てきて、子供たちに面会をしたというのです。

 

 ここのところはまた、面白い哲理なのです。大聖人様はすでに死んでおられる。久遠元初の自受用報身如来も、大聖人様として再誕されて現れるまでは、この娑婆世界にはいらっしやらなかった。ところが、われわれは罪業の深い者で、大聖人様の在世に漏れ、また大聖人様の教化もうけなかったけれども、今こうして折伏を行じ、御本尊様を信じまいらせて、題目を唱えているならば、いつ御本尊様を拝んでも、大聖人様の生命と、われわれの生命とが、ぴたっとふれ合うのであります。大御本尊様が大聖人様の顔にみえたなんていうのは、これはインチキです。字が顔にみえるわけはない。また大聖人様にみえたなんていうのはおかしいです。

 

 ただ大聖人様の御生命と、われわれの生命とがふれ合うのです。御本尊様が厳然とお出で遊ばしていることは、ピリリと胸に感じてくるのです。それは、どういうふうに感ずるかわからない。それは我というものなのです。われわれは自分というものをもっている。

これは仏法では常楽我浄ともいっておりますが、常楽我浄の我は、われわれの肉体のどこにあるともいえない。この我を生命とも判読しておりますが、その生命に感ずるのです。大聖人様の我と、われわれの我とがはっきり御目通りができるのです。これは、今の父が帰り来って子等に見えしむ、というところになるのであります。

 

(別釈)

 この経文の中に父という言葉がある。これには深い意味がありまして、この法華経というのは、厳父の愛なのです。悲母の愛ではないのです。釈迦の仏法は、どちらかといえば悲母の愛なのです。お母さんのいわゆる猫かわいがりというものです。あれは母親が子供を可愛がる、その仏法は釈迦の仏法です。しかも小乗や権大乗教の愛です。ところが、この南無妙法蓮華経の教は厳父の愛です

賞罰厳然としているのです。母親の愛ではないのですから、叱るところは叱る、愛するところは愛する、また徹底的に救ってくれる。これが父の愛であります。

 われわれは御本尊様をいただいております。これは朝三度しか拝まないとか、あるいは、どうとか、こうとかいうけれども、いざとなったら御本尊様です。偉大な父親をもっています。それこそ真剣に御本尊様を拝んだならば、必ず願いは通ります。だけれども、無茶な願いを立ててはダメです。「明後日まで総理大臣にしてくれ」なんて、それは無理です。自分で努力をはらって、しかも、その上に父の加護を願わなくてはならない。われわれは心に憂悩がなく、安心しておられるのであります。

 

 次に、よく、ザンゲのことをいうことがある。大荘厳ザンゲといって、「若し懺悔せんと欲せば端坐して実相を思え、衆罪は霜露の如し、慧日能く消除す」と。

端坐して実相を思えとは、端坐して御本尊様を拝めということです。衆罪は霜か露みたいなものです。慧日能く消除すというのは、その罪はすぐ消え去るぞ、というのです。

 

 キリスト教徒のように黄色い声をだして、沢山の人の前でザンゲなんか恥しくてできますか。ザンゲというのは悪いことをやって白状することです。人の前でなんかいえるものではないのです。人の前でいわされたら腹が立つのです。ですから、彼らは自分に都合のよいような、作りごとのザンゲをしているのです。われわれは悪いことをしたとき、御本尊様の前でいったらなおります。それでは毎日悪いことをしていいかなんていう人があります。そういう考えはいけません。

 

 次に、自惟孤露すなわち「自ら考えると、孤独で頼むところがない」とは、御本尊様に反対して罰を感じたことであります。罰は当てるものでなく、出るものです。不幸な境涯を感ずることです。よく折伏に行って「罰当ててみせる」なんて、さも自分が当ててみせるみたいにいう人がおりますが、そんなものではありません。罰というのは出させるものではない、自然に出てくるものです。

 それを、信心に反対すると、三日目に死ぬとか、十日目に災難がくるとか、そういう馬鹿なウソは、いってはなりません。折伏は慈悲の行であります。