妙法蓮華経如来寿量品第十六の講義 (5) 本文解釈の17,18
17
譬如良医。智慧聰達。明練方薬。善治衆病。其人多諸子息。若十二十。乃至百数。以有事縁。遠至餘國
【譬えぱ良医の智慧聰達にして、明らかに方薬に練し善く衆病を治す。其の人諸の子息多し、若しは十・二十・乃至百数なり。事の縁有るを以て遠く余国に至りぬ】
法華経の講義のときには、いつも、二通りの読み方があるということを申しあげておりますが、良い例といたしまして観心本尊抄の題号は「如来滅後五五百歳に始む観心の本尊抄」と読みます。
この講義は三十何人の人へ、日寛上人が魂こめて講義したのでありますが、その中に「私の形見とも思え」という強い言葉で弟予たちに教えた言葉があります。われわれは、ふつう「観心本尊抄」と無点で読みますが、その中に寛師様は、「観心の本尊抄の「の」の字を、私の形見とも思え」と仰せられている。われわれのような学問のない者からみますれば、寛師様のような大学者が、何で『の』の字でやかましいことをいうのかという気持がおこります。「観心の……」という「の」の字に力を入れていらっしゃる。これが日蓮大聖人様の教学の根本になるのです。今、われわれが拝んでいるところの御本尊は、「観心の本尊」なのです。
なぜのの字をやかましく仰せあったか、と申しますれば「観心の本尊」にたいして「教相の本尊」というのがあるのです。教相の本尊とは釈迦が立てた本尊です。大聖人様のお立てになった本尊が「観心の本尊」になる、同様に今の経文も、教相の譬如良医と観心の譬如良医と、二色の読み方が厳然と表われてくるのであります。
釈迦の立場から、すなわち教相の譬喩として読むときは、釈迦の境涯を通じて読まなければならない。観心の譬如良医と読むときには、これは大聖人様の御心をもって読まなければならないのであります。
(文上の読み方)
釈迦の経文の中には、たとえが非常に多く法華経にも七つのたとえが説かれております。この良医のたとえは、釈迦仏法の中で、もっとも有名で重要なたとえであります。
この譬え話を、かんたんに申しあげれば、こういうことになります。
昔、良医がおった。頭がよくて、非常に薬を作るのが上手なお医者であった。ところで、この方が用事がありますために他国に行かれた。その間に十人、二十人、百数人という、たくさんおった子供たちが毒薬を飲んだ。そして地の上を転げまわって苦しんでいる。そこへお父さんが掃ってこられ、良薬をあたえた。本心を失わなかった者は、すぐ飲んでなおった。ところが本心を失った者は飲もうとしない。そこで父は、他国に行き、使いをつかわして「父は他国で死んだ」と伝えさせた。そこで、失心の子も心がさめて、残していった良薬をのんでなおった。その父は、これを聞いて、喜んで戻ってきたというのです。
この譬えは、どういうことを意味するかといいますと、天台流の教相で読みますと譬如良医の良医というのは、五百塵点劫、久遠実成の釈迦如来であります。
その五百塵点劫に仏になった釈迦如来が、インドに三千年前に出現したのを、父が帰ってきたといっております。また父が死んだといって、自分と同じ人を使いによこした。この使いを上行菩薩と立てております。
末法において日蓮大聖人様です。そのように未来に大聖人様が現れるという、予言書になっているのです。
これは天台家の読み方であります。
また、十・二十・乃至百数の子供を、声聞、縁覚、菩薩と読んでおります。これを、天台読みとも、釈迦仏法の読み方とも、教相の読み方ともいっております。
(文底の読み方)
しからば文底(観心)からお読みすればどうなるか。
譬如良医の良医とは、久遠元初の大昔に、わが身地水火風空と知ろしめして、即座に悟られた自受用身如来のことであります。帰ってきた父とは、日蓮大聖人様であります。しかして遣使還告の使いとは、御本山の御法主猊下であります。また十人、二十人、百数人の子供とは、末法の衆生であり、大聖人様の仏子であります。これが当門流の立て方であります。
すなわち、久遠元初の自受用身如来という良医がおられた。そして、もっとも智慧がすぐれておられるということは、南無妙法蓮華経に通達しておられることであります。
病気にきく薬を良く練りとは、身体の病気だけでなくて、心の悩み、あるいは一家の悩み、国の悩み、あらゆる病気を良く治する薬を作られたのであります。
これ南無妙法蓮華経の御本尊様であります。この南無妙法蓮華経の御本尊様は、四百四病でも、 恋の病でも、注射では絶対なおらない金欠病でも、あらゆる悩みを全部救って下さるのであります。
その御本仏様に、子供であるたくさんの衆生がいたというのです。ところが、あるとき、その良医すなわち御本仏が、末法にいたるまでの間は、事縁ある故に、遠くよその国に行かれてしまった、というのであります。
18
諸子於後. 飲佗毒藥。藥廢悶亂。宛轉于地。是時其父。還来帰家. 諸子飲毒。或失本心。或不失者。遙見其父。皆大歓喜。拝跪問訊。善安穏帰。我等愚痴。誤服毒薬。願見救療。更賜寿命。
【諸の子 後に佗の毒薬を飲む。薬発し悶乱して地に宛転す。是の時に其の父還り来って家に帰りぬ。諸の子 毒を飲んで、或いは本心を失える或いは失わざる者あり。遙かに其の父を見て皆大いに歓喜し、拝跪して問訊すらく、善く安穏に帰りたまえり。我等愚痴にして誤って毒薬を服せり。願わくは救療せられて更に寿命を賜えと】
(文上の読み方)
通解にあり(18頁上段2行~15行)
(文底の読み方)
この文証こそ、創価学会の主張を、端的にあらわしているところといえます。政治であるならば、妥協・提携は許される。いな、必要でありますりしかし、宗教は絶対でありますから、邪宗との妥協は許されぬのであります。故に創価学会は、いかに偏狭にみられようとも、あらゆる人を不幸にする、功徳のない他の宗教をば、邪宗と名づけ、徹底的に破折し撲滅するのであります。
この文は、南無妙法蓮華経の御本仏がおられない留守に、末法の衆生があやまって、佗の毒薬を飲んだとは、邪宗教を信心したのであります、日蓮正宗以外は全部毒薬なりと、はっきり釈迦が法華経寿量品に書き、これを天台・妙楽・伝教が引き続いて釈され、次に日蓮大聖人様が御義口伝に、はっきりと、毒薬とは日蓮正宗以外の邪宗教であると、お説きになっておられるのであります。
毒薬を誤って飲んだら、すなわち邪宗教を信じたために、その毒が身体中にしみこんで、その毒が発し、悶え苦しみ、地を転げまわったのであります。実に恐ろしいことであるが、この毒薬は飲んですぐにはわからずに、十年、二十年と経ってから、害毒がでてくるので、一層恐いのです。
その毒薬の種類や、毒発して悶乱し地を転げまわる姿は、いろいろあるであろう。あるいは立正交成会・霊友会・身延派・仏立宗の邪教を信じたり、あるいは念仏・真言・生長の家・天理教等の邪宗に走ったりして、子供が小児マヒになり懊悩する親もあれば、借金取りに苦しめられたり、商売がダメになったり、一家が離散したりして、地獄の苦を味わうのは、地をころげまわり悶乱する境涯ではないだろうか。大聖人様にもせよ、釈迦にもせよ、邪宗教というものは、恐しいといいきっているのであります。
「是の時に其の父還り来って家に帰りぬ」「是の時」の時という字は、末法と読むのです。仏法では、時という字を、正法の時、像法の時、末法の時、あるいは仏の出現を感じた時、仏がこれに応じてお出ましになる時と、時の字を用いるのです。
其の父が帰ってきたとは、すなわち自受用報身如来の再誕たる日蓮大聖人様が、御出現になったのであります。「家」とは婆婆世界のことであります。末法に入って大聖人様が娑婆世界の中たる日本国にお出ましになった時に、あらゆる子供たちは毒を飲んで苦しんでいたのであります。すなわち、いろいろな邪宗をやって、本心を失っている者もあれば、失っていない者もあったというのです。
本心を失うとは、久遠元初において無作三身如来、南無妙法蓮華経のお傍にいて下種をうけた子であるということを忘れている逆縁の者であり、本心を失わない者とは、そのことを忘れていないで、南無妙法蓮華経を聞いて心に歓喜を生ずる順縁の人であります。そして一切の人々が大聖人様の出現をみて、大いに歓喜して拝しひざまづいて大聖人様にお願い申しあげたのであります。すなわち「よく御無事でお帰りあそばされました。われらは馬鹿だったために、あやまって邪宗を信心し、毒気がまわって苦しんでおります。願わくは、救われて、さらに寿命を賜え」と。「更に寿命を賜え」とは、われらにあらゆる生活をのりきる強き生命力、すべての悩みを解決する功徳をあたえて下さいという意味の文証であり、この後に全部あたえて下さるという、大聖人様の御約束があられるのであります。
(別釈)
ここに一つの疑問がおこってまいります。大聖人様御出現の時には、あれほどみんなで、憎んだではないか。にもかかわらず、娑婆世界にお出になった時、大いに歓喜して、おむかえしたということであります。
これは二つに考えなければなりません。あれほどの大反対も、一つは歓迎の意味になるのです。
心を失わなかったところの、今名前が残っております、四条金吾殿にもせよ、南条時光殿にもせよ、後で謗法したけれども、波木井殿にせよ、あるいは今の中山法華経寺の開祖である富木殿にもせよ、池上殿にもせよ、みな本当に喜んで、大聖人様にお仕えしたのですから、歓喜しておむかえしたという言葉のとおりであります。
次に、信心したらよくなるという文証は、どれかというならば、この更賜寿命の文であります。
どうか救って、さらに寿命を下さいとお願いしたのに、大聖人様はよろしい、御本尊様を信ずれば寿命をあげようと御約束になったのであります。
病気がなおることは、今までの病気という寿命を救療されて、生き生きとした新らしい寿命をもらうことであります。観念文の五座のとき「私の商売に更に寿命を賜え、更賜寿命の御約束を、どうか私にあたえたまえ」と、丁重に、慎重に、ほんとうに仏を信じ渇仰する心を持って、お願いするならば、お聞き届けないわけは絶対にないのであります。