妙法蓮華経如来寿量品第十六の講義 (5) 本文解釈の13、14
13
諸善男子。我本行菩薩道。所成壽命。今猶未盡。復倍上数。然今非實滅度。而便唱言。當取滅度。
如來以是方便。教化衆生。
【諸の善男子、我れ本菩薩の道を行じて成ぜし所の寿命、今猶お未だ尽きず。復上の数に倍せり。然るに今実の滅度に非ざれども、而も便ち唱えて当に滅度を取るべしと言う。如来是の方便を以って衆生を教化す】
(文上の読み方)
すなわち、常住不滅であるこの生命は、どうしてできたかといえば、教相の上からゆきますと、釈迦が五百塵点劫というときに仏を成じたのは、もと菩薩の道を行じて、成じた生命であるといっているのであります。
この文を一応教相に約して、五百塵点劫第一番成道の釈迦が、成道の前に菩薩の道を行じたというのは、何を修行して菩薩の道を行じたのかといえば、南無妙法蓮華経を修行したのであります。
故に三大秘法抄(一〇二一頁)に云く「実相証得の当初修行し給いし処の寿量品の本尊と戒壇と題目の五字なり」云云と。
この時に成ぜしところの寿命は今まだ尽きていないという、のみならず、この寿命が永遠に向って上の数に倍している、すなわち五百塵点劫の数に倍して永劫に住するというのです。しかるに、それにもかかわらず釈迦は途中で死ぬという現象を生ずる。これは衆生を教化していく方便なのである。毎日の生活において夜寝なければならぬように、死がなければ困る故に死があり、永遠の生命からみれば、この死は方便であるというのです。
(文底の読み方)
ここに大聖人様におきましては、我本行菩薩道という菩薩道とは、何ものぞやというのに、ただ南無妙法蓮華経しかないのです。この本因の菩薩道に五十二位あるのですが、そのうち本因初住の文底に南無妙法蓮華経が沈んでいるのです。ここが、他宗の人々のいうことと異なるのです。我本行菩薩道の文底にあるのではない、我本行菩薩道の本因初住の文底に南無妙法蓮華経が秘し沈められているのです。
観心より拝すれば、総勘文抄(五六八頁)に云く「釈迦如来・五百塵点劫の当初・凡夫に御坐せし時我が身は地水火風空なりと知しめて即座に悟を開き給いき」云云との御内証と拝すべきであり、このとき感得せられた御本仏は無始無終であらせられる。大聖人も滅度(死)したもうが、本有常住の涅槃であられる。生命のありのままの状態であります。
しかして、ほぼ釈迦が永遠の生命の寿量品で喝破し、これほど真剣に最後の最高学説をのべているのであるが、この文上の教えはわれわれには功徳がないのです。大聖人は大御本尊を末法の衆生に建立なされ、この南無妙法蓮華経の御本尊を拝めば、この哲学がわかるとおおせられておられる。大聖人の哲学の方がずっと奥深いのであります。
(別釈)
仏教にかぎらず、宗教は生命やわれわれの生活を対象とした学問である。この信心の根底となるべき学問を宗教哲学という。たとえば同じ人間でありながら、なぜ差別があるか、しかしこの悩み、不思議を究明して、いかに生きたら良いかというなどを探究するのが宗教哲学の一部であります。
しかし法華経寿量品の哲学になると、さらに深く探究して根本をえぐって、人間の生命は永遠であると説く。さらに永遠でありながら、なぜ死ぬかという生命哲学上の大きな矛盾、もっとも大きな疑問を、根本的に解決したのが寿量品であります。そして、それでは、どうしたらわれわれが幸福になれるかを、あますところなく説いているのであります。しかし同じ寿量品といっても、釈迦の時代に功徳のあった寿量品と、現代のわれわれに、偉大なる生命力と幸福をあたえる大聖人様の寿量品との二つがあり、天地雲泥の相違があります。
前にも申しあげましたが、我本行菩薩道所成寿命の文を、教相の上からゆきまして、三妙合論のうちの本因妙というのです。前にも説明しましたように、我実成仏已来・無量無辺百千万億那由佗劫は本果妙、我常在此・娑婆世界・説法教化が本国土妙、今のところが本因妙、この経文において、三妙が合論されているというのであります。
14
所以者何。若佛久住於世。薄徳之人。不種善根。貧窮下賤。貪著五欲。入於憶想。妄見網中。
【所以は何ん。若し仏久しく世に住せば薄徳の人は善根を植えず、貧窮下賤にして、五欲に貪著し、憶想妄見の網の中に入りなん】
(文上の読み方)8/9
この段は教相においては涅槃の功徳を説くのです。
仏様が久しくこの世に住するならば、薄徳の人は善根を種えない。常に貧乏でいやしくて、また色欲、声欲、香欲、味欲、触欲という五欲に執著して、悪道の中において妄見の網にひっかかってしまうであろう、だらしのない思想に全部おちこんでしまうであろうと、涅槃ということが、仏に必要だということを説いているところです。
(文底の読み方)
大聖人様が永遠の生命の中において、死を現ずるわけはどうであるかといえば、もし大聖人様が仏として久しくこの世に住していなさるとすれば、まず生命の本理にかなわぬことになります。すなわち十界互具の生命において、仏の生命が常住とすれば、われわれ九界の衆生の常住となり、絶対に死なないという不合理が生ずるのです。
また大聖人様がこの世に常住で死ぬことがないとすれば、徳分のない人は、大聖人様によりかかって御本尊様も拝まず、善根すなわち折伏も行じなくなるのです。折伏を行じない故に、貧乏でいやしい生活におちいり、五欲に執著して、幸福な生活を送ることができず、かつまた、いろいろな思想、まちがった見解の迷路の中に、おちこんでしまうだろうという文であります。
その上に、われらの十界互具の生命が、いかなることをやっても、死なないというのならば、窮屈な自己向上につとめるわけはないから、それ以上のひどい状態になるわけであります。
(別釈)
大聖人様の仏法から読みますと、この如来というのは、別しては南無妙法蓮華経如来寿量品の如来ですが総じていえば衆生であります。これは御義口伝において、「日蓮等の類いの意は惣じては如来とは一切衆生なり」と仰せであります。この御意通りに読んでゆきますと、もし衆生が久しく世に住するならば、われわれが死なないということになるならば、薄徳の人は、久遠元初の自受用報身如来、すなわち、御本尊などはちっとも拝もうとしません。死なないということくらい、恐いことはないのです。衆生も人間だけならまだいいのですが、みんな死なないのですから大変です。
猫も犬もネズミもタコもみんな死なない。これは困ったものです。みんな死なないとしたら、どうなるか。
叩かれても、殺されても、電車にひかれても、飯を食べなくても死なない。世の中は大変なことになります。爺さん裟さんが、たくさん増えます。いつまでも元気でいるわけではなく、年もとれば病人にもなる。
しかし死なないのです。
このように人間は、死なないでも困ります。また死ぬ時が分っているのも困ります。もし三日しか生命がないとしたら、講義の本なんか読んでいられません。
ですから、人間は必ず死ななければならないものであって、死ぬ年月が分らないようにできているところに、世の中の面白さがあるのです。これが妙なのです。なればこそ、御本尊様を拝むようにもなるのです。実に生命というものは面白いものです。死ぬときをわからせないでいて、本人には生きたがらせておいて、死なせるようにできているのです。ですから、大聖人様が本有の生死である、本有の退出であると仰せられているのであります。
そう思いますと、御本尊様を拝まずには、いられなくなります。大聖人様の仰せ通り、御本尊様の功徳によって権・迹・本の仏の因行果徳を承継して、死ぬ前には、ほんとうに幸せで、楽になって死なねばなりません。信心さえ強盛であれば、御本尊様を信じ切るならば、必ず死ぬ前、数年間、ほんとうに丈夫で、お金があって、家が平和で、思い通りになって、……そのようになるとおっしゃっているのです。そうでなければ、死後の成仏の証明がつかないのです。
死ぬまで貧乏したり病気したりしてたまるものか、病気の者なら必ずなおり、心も平和で落ち着いて、行きたい所にも行ける。そうなると、苦労している間の方が、見込みがあるということになる。まだ生きるということがハッキリしているから。そう思うと、今は本有の貧乏でも、安心であります。