妙法蓮華経如来寿量品第十六の講義 (5) 本文解釈の12
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以諸衆生。有種種性。種種欲。種種行。種種憶想。分別故。欲令生諸善根。以若干因縁。譬喩言辞。種種説法。所作佛事。未會暫廃。如是 我成佛已来。甚大久遠。壽命無量。阿僧祗劫。常住不滅
【諸の衆生、種種の性・種種の欲・種種の行・種種の憶想分別あるを以ての故に、諸の善根を生ぜしめんと欲して、若干の因縁・譬論・言辞を以って種種に法を説く、所作の仏事未だ曽て暫くも廃せず。是の如く我成仏してより已来甚だ大いに久遠なり、寿命無量阿僧祇劫常住にして滅せず】
(文上の読み方)
釈迦が多くの衆生をながめると、人々にはいろいろの性分や、さまざまな欲望や、いろいろの行い、いろいろの考えや分別がある。そこで、それらのものを縁として、多くの善根を生ぜしめようとして、いくばくかの因縁話や、たとえ話しなどをもって、いろいろに法を説いたというのです。
法華経の化城喩品には、釈迦が三千塵点劫の昔に、大通智勝仏の第十六王子として法華経を説いたというような、因縁話を説いております。また法華経には七つの大きなたとえ話しを説いております。
このように釈迦は五百塵点劫の成仏いらい、いままで少しも、衆生を救うことを止めなかったというのであります。
ここで釈迦は、自分は成仏してから、はなはだ大いに久遠である、五百塵点劫をへているのであるぞと、厳然といいきっております。そして、常住して滅せずと、一応の永遠の生命を説いております。
(文底の読み方)
日蓮大聖人様が、末法に現われて衆生を見るのに、衆生にはいろいろの性分、いろいろの欲がある。かりに金が欲しいといっても、限度がみな違うのです。いろいろの行がある。過去世の因縁によって、この世へきてやることが、みな違う。また考え方や思想もいろいろである。
そこで、どうしてわれわれを救おうかと大聖人様はお考えになり、現在のわれわれの状態を考えられたのであります。それが御本尊の御慈悲です。すなわち、善根を生ぜしめんとして、御書にいろいろと説かれているのであります。善根とは折伏のことです。
そこでわれわれに折伏させようとなさって、「お前は今貧乏であろう、過去に貧乏の因があるからだ。今、お前が御本尊を拝んで、南無妙法蓮華経と唱え、折伏を行ずるならば、過去世になかったところの金のもうかるという原因が、生まれてくるのだ。御本尊が下さることになっている。因行果徳の二法がゆずりあたえられるのだ」と大聖人様は、観心本尊抄にはっきり約束され、因縁を説かれているのであります。
また大聖人様は、われわれが折伏して、福運をつかむように、たとえを説かれるのであります。
われわれは御書を拝して、大供養した人の行動と功徳を知る、それはたとえです。今われわれが大聖人様へ着物を奉ったとしても、それは大したことではないのです。苦労もなんにもないのです。ところが、昔の人が、綿入れを大聖人様に奉ったとすれば、大へんなことです。春に種をまいて、綿をとってそれをつむいで、自分で織る、そうして綿入れを作ってさしあげるのですから、その人の信心の状態と、われわれの信心の状態とくらべてみるときにおいて、その人の行動は譬喩になるでしょう。また、「ああ、あの人は、ああいう謗法をやったから貧乏になった」「あの人は仲間の者を憎んだから、一向によくならない」信心して功徳を受けて幸せになった人を、われわれが聞くこともみな譬喩であります。
また言辞とは言葉、大聖人様の御説法、あるいは御書の言葉等により、あるいは新聞を読み、あるいはラジオを聞くのも、信心を本として聞くが故に、世の状勢をも見通しがつけられる。大聖人様はそこばくの因縁・譬喩・言辞をもって法を説かれ、折伏をやりなさいといわれて、功徳を下さるのであります。
大聖人様のお仕事は御涅槃なされて後七百年近い今日においても、まだ大御本尊様のわれわれに善根を生ぜしめんとの御事は少しもおやめになったことがないのです。このように、大聖人様の生命というものは、久遠元初いらいであります。教相上における釈迦の生命は五百塵点劫からである。この阿僧祗劫は、大聖人様においては、久遠元初の意味になるのであります。
そして、常にこの娑婆世界において常住不滅であり、決して滅していない。今後も大聖人様のお生命というものは滅しないのであります。
(別釈)
ところで、大聖人様は、久遠元初の自受用報身如来であられます。それが第一番には五百塵点劫の釈迦と現われ、あらゆるところに、久遠元初の自受用報身の慈悲を垂れられ、衆生を見られて、特にこの末法へ大聖人様がお現われになった。
この原理は五百塵点劫に仏がおった。その中間には、然燈仏があり、その然燈仏と関係した儒童菩薩が釈迦如来と生れた、われわれが大聖人様を拝し奉れば、末法になってお現われになったのだと思うが、ほんとうは、そうではないのです。久遠元初という時にすでに地水火風空なりと知しめて即座にお悟りになった仏様なのであります。
それが種々の仏として、御自身がお出ましになり、迹を垂れられ、使いをよこされた。そうして末法には、御自身がここへお現われになった。中間の仏はことごとく、わが分身仏であり、迹仏である。みな久遠元初の自受用報身如来の息のかかったものである。
末法に大聖人様が出現されたことについては、このように拝さなければならない。
次に、折伏以外には善根はありません。釈迦仏法には布施行というのがあります。これが釈迦仏法においても、この布施を物の布施と法の布施との二つに分けて、物の布施には限りがあるから、晋遍的にはいかない。だから法の布施をせよと、釈迦は最後にいっている。法の布施とは折伏のことであります。
因縁ということについて、邪宗の者たちが、「身延へおまいりしたら、途中の果物屋へも寄らない、因縁がくっつくから」なんていっております。トリモチじゃあるまいし、因縁がくっつくというような使い方は誤りであります。因縁とは過去に因があり、また助縁があって、そこに一つの現象が起る、それをいうのです。
そういう所作を未だ曽て暫廃せず、お廃めにならない、われわれに日曜日がありますが、御本尊様には日曜日がないのです。大聖人様が、「今日は休みだ」なんていったら都合が悪いでしょう。夜中に腹痛を起して御本尊様を拝んでも、御本尊様が寝ていて起きてこないなんていったら困ります。そういうことがありませんというのが未曽暫廃です。仏さまは、夜中もお寝みなくわれわれを守って下さる。昼夜に、日曜日もなければ元旦もない。ちようど、これは畠にいろいろなものを植えた人が、いつ芽が出るだろうか、いつ花が咲くだろうかと思うのと同じ御心と拝します。仏さまが少しもお休みにならないとすれば、われわれみたいなものが、折伏のために一時間や二時間働くことは当り前のことです。それでも仏様の働きからみれば、何億分の一、何千万億分の一しか働いていないことになる。そう思うと、励まされるではありませんか。そうなれば、今日は寝たいと思うときでも、折伏にゆこうという勇気がリンリンと湧いてくるのであります。