(5) 本文解釈の10、11

 

10

諸善男子。如來所演経典。皆爲度脱衆生。或説己身。或説佗身。或示己身。或示佗身。或示己事。或示佗事。諸所言説、皆實不虚。

 

【諸の善男子、如来の演ぶる所の経典は、皆衆生を度脱せんが為なり。或は己身を説き、或は佗身を説き、或は己身を示し、或は佗身を示し、或は己事を示し、或は佗事を示す。諸の言説する所は皆実にして虚しからず】

 

(文上の読み方)

 もろもろの善男子よ、如来の説かれたところの経典は、みんな人人を救うためのもので、みな真実にしてウソではないのだというのです。これは教相から釈迦如来の立場をとって考えますれば、阿含にしても方等にしても般若にしても、あるいは華厳にしても、みな如来の説かれたところのもので、ウソではない。ことごとく、五百塵点劫の一仏に帰すのであり、三世十方の仏の所作というものは、みな変りはないのだといっているのです。

 

(文底の読み方)

 これを、文底より拝すれば、末法の如来とは、はじめに申しましたように、南無妙法蓮華経如来寿量品ですから、南無妙法蓮華経の如来であります。今までにあらゆる仏土に仏があって、その衆生に感応して現われたところの仏というものは、この題目のように、南無妙法蓮華経の諸仏が現われたのです。南無妙法蓮華経如来寿量品のこの如来の説きたもうところの経典はみな衆生を救わんがためである。末法御出現の如来の説きたもうところの経典とは、大聖人様の御書であり、根本は南無妙法蓮華経のほかはありません。

 

 南無妙法蓮華経という経典を、われわれが信じて行ずる以上には、必ず救われなければならないのです。もし、救われなければ、仏様がウソツキだということになります。

 

 或は己身を説き、或は佗身を説きとは、己身とは仏界です、佗身とは九界です。ここに或はという字が六つありますから、ここを六或といっております。これをまとめて申しますれば、大聖人様の御身をお説きになり、お示しになり、大聖人様の御振舞をお示しになるのであります。

 

 また次に大聖人様に御関係のあるところの己身、上行菩薩をお説きになり、上行菩薩をお示しになり、あるいはまた、久遠元初の自受用報身如来をお説きになり、お示しになる。または、大聖人様に御供養をさし上げた者の功徳を示し、あるいはまた、大聖人様にあだしたる者の仏罰を示すということであります。これはみな、応身如来の御振舞をお示しのところであります。

 このように説かれてきたところは、みないつわりではないのである。

 

(別釈)

 末法の御本仏、日蓮大聖人という仏さまが説かれた経典はたった一つであります。釈迦のようにいろいろな経文は説かれてないのです。釈迦は、八万法蔵という、ドエライ経を説いている。大聖人様は、南無妙法蓮華経という、たった一つ、たった一言のみを説かれましたが、真実なのであります。それは衆生を救わんがためのものであります。ですから、大聖人様が、南無妙法蓮華経と唱え、南無妙法蓮華経の御本尊を拝めと仰せられているのは、われわれ衆生を救わんがためであります。大聖人様は、たくさんのことを説いていられるように思うが、何にも説いてないのです。南無妙法運華経ということだけを、ごらんになり、お説きになったのです。

 

「大聖人様、一番肝腎かなめの説法を聞かして下さい」

「よしよし、そこへすわれ.南無妙法蓮華経、終り」

大聖人様の三十年間の説法は、たった一言なのです。

故に、われわれが御本尊様を信じて題目を唱え、折伏をやれば、必らず救われるのであります。

 

 

11

所以者何。如來如實知見。三界之相。無有生死。若退若出。亦無在世。及滅度者。非實非虚。非如非異。不如三界。見於三界。如斯之事。如來明見。無有錯謬

 

【所以は何ん、如来は如実に三界の相を知見す。生死の若しは退若しは出あることなく、亦在世及び滅度の者なし。実に非ず、虚に非ず、如に非ず、異に非ず、三界の三界を見るが如くならず、斯の如きの事、如来明らかに見て錯謬あることなし】

 

(文上の読み方)

 ここは、報身如来をのべているのです。如来は如実に三界の相を知見せりとは、仏は、ありのままに、明らかに、三界の相を知っているというのです。三界とは、今の言葉でいえば全宇宙のあらゆる状態の場面、これを精神世界(無色界)、欲望の世界(欲界)、物質世界(色界)の三つに、仏法では分けていますから三界というのです。

 この次は法身如来をのべております。「生死の若しは退、若しは出あることなく」とは、教相の読み方、釈迦の仏法観におきますれば、変易・分段の生死、煩悩の若退若出と読ましております。

「在世及び滅度の者なし」とは、仏の在世、仏の滅度、または衆生の在世、滅度というものはない。生老病死と変化するだけで、生命そのものは変らないのだというのです。

 また人の生命は「実にあらず、虚にあらず、如にあらず、異にあらず」であります。すなわち生命は実在して厳然とそこにあるか、いや、そうではない。それでは、むなしい虚空のようなものか、いや、それでもないというのです。じゃ同じものか、そうではない。異うのか、異うのでもないというのです。

「三界の三界を見るが如くならず」とは、三界の真の姿は、自分の立場で、この世の中のことを見るようなものではないのだ。仏さまだけが、それを明らかに見て、あやまりあることはないのだ、というのであります。

 

(文底の読み方)

この如来は日蓮大聖人様であります。大聖人様は、あやまりのない宇宙観、世界観をもっておられるのであります。また大聖人様のおおせでは生命の実相ということから見れば、生死ということはないのです。生まれるとか死ぬとかというのは、永遠の生命の単なる変化の状態をいっているにすぎないというのです。

 これ本有の生死であり、本有の若退若出であります、われわれの苦しみというものも、楽しみというものも、本有のものである。生まれてくるのも、死ぬのも本有のものである。煩悩が出てきて困った、困る必要はない、本有の煩悩である。そのように本有常住と見るところに生死もなければ、出るも引っこむもないというのです。

 また仏やわれら衆生が、この世にいるとか、死んでしまったかということも、永遠の生命という実態からみれば、一つの変化にすぎない。仏の生命の働きだというのです。

 本有の実に非ざるもの、また本有の虚しからざるもの、本有の如にあらざるもの、本有の異にあらざるもの、これがわれわれの生命の姿であります。

「三界において三界を見るが如からず」とは、その各部々々から、のぞき見して、自分の見解で判断しているようなものではありません。欲界から見た宇宙観、無色界から見た宇宙観、われわれの心だけで考えた宇宙観・世界観のように、一部から見たものと違うのであります。大聖人様は報身如来のお立場から、三界の相をきちんと全体観において知っておられる。三界を見ることにおいて、絶対にあやまりがない。三身即一身、一身即三身とおおせられる大聖人様は、本有常住の御本仏であられるのであります。

 

(別釈)

「実でもなく虚でもなく、如でもなく、異でもない」という、法身の生命を、われわれの生命で、たとえていいますと、「お前に生命があるか」「そりゃ、あるさ」といいます。しかし、どれが生命なのかといえばわからない。肉体でもない、心でもない。それでは生命がなくなってしまったようだ。何だかはっきりしないから、実ではないという。「では、お前に生命はないのか」といえば、生きているのですから、ないというわけにはいきません。

 それなら、お前の生命が、赤ん坊のときの生命と、今の生命と同しかといえば、同じというわけにはいきません。それでは異うかといえば、異わないのです。

だから、異ったものでもなく、同じものでもない。隣りにいる方の顔をごらんになって、「お前の生命は本ものか?」「どうも、ほんものでもないようだ。変っていくから」「ではウソか」というと、「ウソでもない」「お前の生命と、おれの生命と同じか」異う人間だから、異う生命です。異うかというと、同じように生きているのだから同じだ。何だか、わけがわからないけれども、生命というものはあることになるでしょう。それが、ここのところです。生命という概念はいえるけれども、それを持ってこいといわれると、われわれわれにはわからないのです。

 

 次に「三界において三界を見るがごとくならず」とは、われわれが世の中を判断して、自分の商売のことについての考え方というのも、この三界すなわち欲の世界、物質の世界、あるいは精神の世界とかいう三つの世界というもは、われわれが自分の立場で見るようなものではないのです。仏の目で明らかに見ていられる。だから、われわれが世の中のことを一から十までわかるわけはないのです。わかるわけがないから、みんな間違いを起す。病気にもなるのです。

 御本尊様は、これを見て閲違いがないとおっしゃっているのですから、御本尊様を拝みまいらせて、御本尊様の生命をこちらへいただくと、われわれのこの生命それ自体が、南無妙法蓮華経というものなんですから、御本尊の力が、グーっとこっちへ出るのです。

 そうすると、世の中のことを見ても、大きなあやまりがなくなるのです。われわれは凡夫ですから、御本尊様と同じ智慧は出るわけはありません。信ずることによって、御本尊様のお力をいただいて、世の中をわたるのに、間違いないようにしてゆこうというのが、われわれの主張なのです。御本尊様を信じて、間違いのない人生を送ろうではありませんか。