(5) 本文解釈の9
09
諸善男子。如來見諸衆生。樂於小法。徳薄垢重者。爲是人説。我少出家。得阿耨多羅。三藐三菩提。然我實。成佛已來。久遠若斯。但以方便。教化衆生。令入佛道。作如是説。
【諸の善男子、如来は諸の衆生の小法を楽える徳薄垢重の者を見ては、是の人の為に我少くして出家し阿耨多羅三藐三菩薩を得たりと説く。然るに我実に成仏してより已来、久遠なること斯の若し、但方便を以て衆生を教化して、仏道に入らしめんとして是の如き説を作す】
(文上の読み方)
ところで、教相の上から説きますれば、釈迦現在の時を見れば、小法をねがう徳が薄く垢のたまった者がある。こういう者には、自分は若くして出家して、仏の智慧をえたと教えているというのです。釈迦の時代においては、法華経以外の小乗経とか、権大乗経を小法、邪教、未得道教、覆相教といいます。
そうして、この小乗をねがう者は、徳分が薄くて謗法の垢がたまり、法華経にあうことができない。垢が重いというのは欲とか、怒りとか、馬鹿とか、憂いとか、嫉妬とか自慢、我慢が強いとか、そういうものが重い者には、
「わしは、印度で修行して、若くして出家して、そして仏になった」と説いて、仏の永遠の生命は説かないというのです。
しかるに、真実をいえば、釈迦は五百塵点劫いらいの仏であるというのです。ただ方便して、衆生を利益し教導しなければならない、そういう立場から始成をいったにすぎない。仏の方便であるといっているのであります。しかし、このような方便教を説くのも、結局は最後に、法華経によって永遠の生命をわからせたいからです。釈迦はインドで仏になったのではない。永遠の昔に仏になっておったのだということを説きたいためであります。
これは、始成と久成という言葉で、教学問題などで扱われておりますが、始成というのは、釈迦という仏が、印度に生まれて仏になったのだと決めこんでいる経文を教える。久成とは、釈迦は五百塵点劫いらい仏であったのだという思想をいうのです。
(文底の読み方)
これを日寛上人様は、末法の今日において、久遠元初の自受用身すなわち大御本尊様を知らない者は、小法をねがう徳薄垢重の者であると仰せられております。一閻浮提総与の大御本尊様を信じない。日蓮正宗以外の一切の邪宗をやっている者です。
邪宗日蓮宗のヤカラは、日蓮大聖人様が末法の御本仏であるということを知らないのです。ただ教相外用の辺ばかりをみて、ぎりぎりのところで、上行菩薩の再誕ぐらいにしか思っておりません。富木殿でさえ、大聖人様に面と向って「御本尊様をあらわされるという上行菩薩は、いつ出現されるのか」と聞いたほどです。
しかし、大聖人様は御書のあらゆるところで、御本仏たるの御確信をのべられ、信ある者に久遠元初自受用身如来の再誕たることをわからせようとなさっていらっしゃるのであります。また、われわれ全部が、久遠元初の自受用報身如来の眷族だということをわからせるために、いろいろの御書をおかきになったのであります。その御精神を伝えているのは、第二祖日興上人の門流たる、日蓮正宗のみであります。
(別釈)
日蓮正宗に敵対し、邪宗を信ずるものには、無始無終の永遠の生命はわからないのであります。その人々は、この世で生まれて、この世きりものだとしか考えることができないのです。キリスト教でも永遠の生命は説きます。他の宗教でも永逮の生命を口にするものがありますが、みんな観念的なものです。
この肉体がこのまま永遠に続いてゆくのだということをば、はっきりと認識していません。また生まれてくるんだ、しかもこの娑婆世界に生まれてくる、また人間に生まれてくるということを、誰も恐しくて、はっきりいっておりません。日本に生まれ変りという言葉がありますが、生れ変るのではなく、生命が続いてゆくのです。
この問題は、空観ということがわからないと、はっきりしてこないのです。常楽我浄の我の常住です。霊魂ではありません、霊魂なんかないのです。そういうような面倒な哲学になります。
一生懸命勉強すれば、わかりますが、こんなにも勉強してわかったというのは、「ああ、自分も永遠に生きて行くのだ」ということなのです。「それなら、これを信じて、ああそうかと思えば、こんな苦労しなくてもよかったのだ」ということになるのです。本を買って頭を痛くして読んで、考えて、また読んで考えて、わかればよいけれども、頭の悪い人には、死ぬまでわからないかも知れない。
それよりも、大聖人様の仰せを信じて、また御本尊様を拝んだ方が早くわかるのであります。