(5) 本文解釈の3、4

 

03

譬如五百千萬億。那由佗。阿僧祗。三千大千世界假使有人。抹爲微塵。過於東方。五百千萬億。那由佗。阿僧祗国。乃下一塵。如是東行。盡是微塵諸善男子。於意云何。是諸世界。可得思惟。校計知其。数不。

 

【譬えば五百千万億那由佗阿僧祇の三千大千世界を、仮使人あって抹して微塵と為して、東方五百千万億那由佗阿僧祗の国を過ぎて乃ち一塵を下し、是の如く東に行いて是の微塵を尽くさんが如き、諸の善男子、意に於て云何、是の諸の世界は思惟し校計して其の数を知ることを得ベしや不や】

 

(文上の読み方)

 前のところで、釈迦は仏になってから、無量無辺百千万億那由佗劫をへているといったが、それはどのくらい前かということを、次に明らかにしたわけであります。

 この、五百千万億那由佗阿僧祇という数は、五に百を掛けて、千を掛けて、万を掛けて、億(十万)を掛け、那由佗(千億)を掛けて、那由佗の何千億倍以上の阿僧祇を掛けた、それくらいの三千大千世界があったと思え、といっているのです。

 仏教で用いる数は掛算なのです。よく老人の人は二七日というでしよう、二十七日のことではなくて、二七の十四日をいいます。三七日は、三七、二十一日のことです。七七日は、七七、四十九日という。

 

仏法で数を並ベてあるのは、みな掛算した数をいうのです。

 五に百掛けて、千掛けて、万掛けて、億掛けて、那由佗を掛けて、阿僧祗を掛けて、それくらいの三千大千世界があったとせよ。それを人があって、それだけの世界を集めてきて、ウドン粉のような細かい塵にしてしまうのです。それから、まず、ロケットのごくいいものに乗れという、経文には書いていないけれどもバケツに一杯、その粉を入れろというのです。そうしてロケットに乗って、飛びだすのです。そして、五に百掛けて、千掛けて、万掛けて那由佗を掛けて、阿僧祗を掛けただけの三千大千世界の国々を通ってゆくのです。そして、そこへ、一粒を落せというのです。一塵を下せというのだから、二粒落してはいけないのです。それからまた、五に百掛けて、千掛けて、万掛けて、那由佗を掛けて、阿憎祗を掛けたほどの三千大千世界の国々を過ぎて、また一粒落す。それからまた、五に百掛けで千掛けて……バケツの粉は、なかなか減らないのです。また、なくなったとしても、こっちには、まだ、五百千万億那由佗阿僧祗の三千大千世界の国々を粉にしたものが、いっばいあるのですから、バケツに一杯やそこら減ったってダメです。こうして、この微塵にした粉が、ことごとくなくなったときを考えよというのです。どのくらいの国になるか、お前らはそれを計算できるかというのです。お前らは、これがわかるかどうかというのです。頭で考えても、すごい数字です。

 

 釈迦は、その通りすぎた世界の数を、わかるかどうか聞いているわけであります。

 

04

弥勒菩薩等。倶白佛言。世尊。是諸世界。無量無邊。非算数所知。亦非心力所及。一切聲聞。辟支佛。以無漏智。不能思惟。知其限数。我等住。阿惟越致地。於是事中。亦所不達世尊。如是諸世界。無量無邊。

 

【弥勒菩薩等倶に仏に白して言さく、世尊、是の諸の世界は無量無辺にして、算数の知る所に非ず、亦心力の及ぶ所に非ず。一切の声聞・辟支仏、無漏智を以ても思惟して其の限数を知ること能わじ。我等阿惟越致地に住すれども、是の事の中に於いては亦達せざる所なり、世尊是の如き諸の世界無量無辺なり】

 

(文上の読み方)

 ところで、弥勒菩薩等は、仏が「お前らは、これだけの国の数がわかるか」と問うたのにたいし、仏に向って、「世尊よ、わかりません。無量無辺の数で、計算してもわかりませんよ、また心の力の及ぶところでもないのです」と。

 この辟支仏というのは縁覚です。弥勒普薩は、さらにつづけて、「声聞や辟支仏が、無漏智と申して、もう、煩悩のなくなったところの智慧をもってしてもわかりません。では声聞や縁覚の階級でわからないものなら、菩薩の階級ではどうかというと、われらまた阿惟越致地、これは、アビパッチヂとも申しますが、不退地ということです。不退、もう全然、仏道修行を退かない、もう仏になると定まった、そういう地位にいる、阿惟越致地という境涯にいるわれわれでも、まだおよびません、わかりません。要するところは、さっきの国の数というものは、無量無辺という以外にありません」といっているのです。

 すなわち、数学家でも、無漏智の声聞・縁覚でも、不退転の大菩薩でも、その無数の国々の数はわかりませんと、ミロク菩薩は、答えているわけです。次にこの無数の国々の数を、時間に変えてゆくわけです。