(2) 從地涌出品第十五

 

寿量品の前は、従地涌出品第十五といって、娑婆世界の地下から涌き出る、すなわち地涌の菩薩のことが説かれております。この従地涌出品の後半分と、寿量品の一品と、その後の分別功徳品第十七の前半分とを、合せて一品二半といい仏法の最高の要めであるといわれております。しかも、観心本尊抄に明らかなごとく、この一品二半には、日蓮大聖人様の一品二半と天台の一品二半と、二種類あるのであります。

 

日蓮大聖人様の一品二半こそは、三大秘法の御本尊様であります。

 

この問題は重要でありますが、今はかんたんに、寿量品に入る前に、従地涌出品の大体の意味を申しあげます。

法師品より、仏は滅後に法を弘めることをすすめた。宝塔品では三箇の勅宣、提婆品では二箇の諌暁があった。これにたいして、たくさんの大菩薩たちが、勧持品で、仏滅後の悪世に、三類の強敵をうけ、どんな迫害をうけても、命がけで法を弘めますとちかった。すなわち、文殊や薬王や観音菩薩などがみんな声をそろえて、「仏の滅後において、ぜひとも、この妙法蓮華経を弘めさせていただきたい」とお願いしたのであります。

 

ところが、涌出品で仏は、「止みね、善男子。お前たちには頼まぬ。滅度の後といっても、末法というときには、とても悪い人間ばかりいて、とても、お前たちのような力のない考では弘めるわけにはいかない。私には久遠からの弟子がある」といったかいわないとき、その声にどう応じて、土地の下から涌きでるように、六万恒河沙の大菩薩方がぐーっと現われた。これが従地涌出品の儀式です。

 

南無妙法蓮華経と認められた御本尊を中心にして、釈迦、多宝、分身の諸仏が全部ならんでズーっと大空へ、地涌の菩薩が上行菩薩を先頭に、次は無辺行、浄行、安立行の四菩薩様が、唱導の師と申して大将となられて、六万恒河沙という人たちを引きつれて、雲霞のごとく現われた。その姿を見て、弥勒菩薩が非常におどろき、「自分は何回となく娑婆世界へきて、あるいは他方の国土へ生まれて、知らんものはないのだけれど、この大菩薩だけは知らない」といえば、仏の説くには「これは私が仏になったとき、一番先に教えた弟子だ」と。

弥勒が、またびっくりするのです。これだけ多くの大衆を教えたというのは、この世で教えたのじゃないのだ、仏になったのはずーっと昔だと、略久遠を開いているのです。ここからが天台の一品二半の前半品になるのです。

 

大聖人様は、この部分を一品二半に入れておりません。続いて弥勒が仏に向って、「あなたのいうことを聞くと、この六万恒河沙の大衆は、あなたの弟子だというけれど、われわれからみると、あなたよりも御立派に見える。あたかも二十五歳の青年が、百歳の翁をつかまえてわが子というのと同じに見える。どういうわけですか」と疑っていう。そこからが大聖人様の前半品になるのです。「これをはっきりしてもらわなければ、われわれはいいけれども、末法の人間がこれを信用せず、疑を起して地獄へ堕ちる恐れがある。あなたの滅後の衆生のために、未来世のために、ぜひともお説きねがいたい」と乞うので、それではと仏が立ち上って説いたのが、如来寿量品第十六なのです。

 

その地涌の菩薩方をそこへおいて、なぜこれほどの大衆がわが弟子であったかを、そして如来寿量すなわち、この仏が持っている功徳が、どれほどであるかということを説いてゆくのです。われわれは地涌の菩薩として、釈迦の法華経のもっとも大事な座に、われわれは一緒におったのです。ですからわれわれの過去の姿を尋ぬれば、地涌の菩薩なのであります。

 

そして、神力品にいたって、四人の大導師すなわち上行、無辺行、浄行、安立行の四菩薩の中でも、総大将の上行菩薩に、神力品にいたって、別付嘱がなされるのであります。末法に御出現の日蓮大聖人様は、文上の外用の姿では、この上行菩薩の再誕であられます。しかしながら大聖人の御内証は久遠元初の自受用身であられ、末法の御本仏であられます。故に、われわれもまた、本地は御本仏の眷族なのであります。