妙法蓮華経方便品第二の講義 (4)本文解釈の(3)

 

舎利弗。如來知見。廣大深遠。無量無礙力。無所畏。禅定解脱三昧。深入無際 成就一切。未會有法。

 

【舎利弗、如来の知見は広大深遠なり。無量・無礙・力・無所畏・禅定・解脱・三昧あって深く無際に入り、一切未曽有の法を成就せり】

 

(文上の読み方)

 舎利弟よ、仏の知見は智慧は非常に広大で、時間的にも非常に遠いものであり、はかることができないほどである。また四つの無量心や、四つの無礙智(仏の智慧の通達自在で何らさわりがない)をもち、仏の十力をそなえ、獅子王のごとき畏るるところなき力を有し、心が一所に定まって不動で、深く思考し、ある悟りの境涯にあり、一層深く入って何らとどこおりがない。そして、いまだ曽つてあらざる法を成就したのである。

 この方便品は法華経の迹門ですから、迹門の仏であっても、これだけの境涯になると一応はいっております。しかし法華経迹門の一切未曽有の法を、本門文上の五百塵点劫に成仏した仏からみれば、ごく低い法になる。まして文底下種の大御本尊からみれば、全然低いものだということがはっきりするのです。いまだかつて有らざる法を成就したというが、迹門の仏の分際においては、南無妙法蓮華経の境涯がわかるものか、わからないのだと、うち破っているのです。

 

 

(文底の読み方)

 しからば、末法下種の御本尊様はどうかというのに、「これらの力が御本尊様にもあります」こう説けば、この前に話した借文、この方便品を借りて、御本尊様の御境涯を説くことになります。だが、この力は、大御本尊様にはもちろんあられるのですが、これだけかというと、迹門の仏の持っているこのくらいの力のものではない。どれだけ違うかというと、天地雲泥というほどの恐ろしい違いがあるのです。そこが御本尊様と迹門の仏との違いです。

 われわれは何らの苦労なく、無上の宝聚不求自得と申しまして、大御本尊様を求めずして得たのです。われわれは、何も大御本尊様を求めたわけではないのに折伏されて、イヤダイヤダというのに、やらされてしまったのでしよう。そうして得たところの御本尊様を、われわれはただ受持するだけで、この御本尊様のおおせ通り御経を上げ、題目を唱え、そうして折伏して、どうなるかといえば、三世の諸仏の功徳を全部譲り与えられるという。

 迹門の仏は、これだけの力があるといっているだけだ。大御本尊様は、仏の因行果徳の二法をば、この仏の力以上のものをば、求めずして、われわれに与えるぞという力を持っていらっしゃる。

大御本尊様の左の肩を拝み奉りますと"福十号に過ぐ"とあります。この迹門のことを十号というのです。われわれが御本尊様を受持して讃嘆する、その福運は、この迹門・本門の十号の仏に勝るのだと仰せられている。ここに、この迹門の釈迦仏と、大御本尊様のお力の相違がある。

ですから、われわれは、十力だとか、四無礙もいらない、これは文底へくると逆になってきます。われわれの知見が広大深遠でなくてもよいのです。この仏が持った功徳より以上の功徳を、われわれは受けるということになっているのです。何にも求めずして得たる御本尊によって、唯受持して信心することによって、それだけの福運をうけるのですから、文底の仏と、この迹門の仏とくらべれば、天地雲泥の差があることは、はっきりすると思う。

 

(別釈)

 次に無量、無礙、力、無所畏、解脱、三昧という言葉の文上の意味を申しあげます。

 無量、それは四無量心といいまして四つあります。

慈無量心、悲無量心、善無量心、捨無量心といいます。

慈無量とは、慈、すなわち人に楽しみをあたえることを、無量というほども仏は持っていられるのだということ。

悲無量心とは人の苦しみを除く力が、無量であるということ。

喜無量心とは、願いに従って歓善を得させることが無量であること。

捨無量心とは、煩悩を捨て憎まず偏愛しないということが無量である。

これが迹仏の境涯だというのである。

 無礙にも法無礙、義無礙、辞無礙、楽説無礙という四無礙智または四無礙弁がある。

 まず法すなわち説法の内容において無礙である。

無礙とは仏の説くところのものが、通達自在でさわりがなく、よく人の心に入り、よく理解させうることです。

義無礙とは、一切の義において、さわりがないこと。

辞無礙とは仏が述べる言葉が適切で、さわりがない。

楽説無礙とは説法をすることに喜びを感じ、何らのさわりがないことである。

この四無礙の智というのは、例の落語で子供に長い名前をつけるのに、仏様に四無礙というものがあって、辞無礙というのは言葉が何でもよく話せるようになる、義無礙はいろいろの義に達することができるといって、辞無礙義無礙……と早口にいうのがありますが、あれです。

 

その次は力ですが、これは仏の十の力をいいます。

 

 一、()是処(ぜしょ)非処(ひしょ)智力(ちりき)「是処と非処を知る智力」

この処とは道理のことです。是処とは因果の道理をよく知って解釈することである。非処とは因果の理法を無視する考えである。この区別をよく知ること、すなわち理非の道理がよく判る力がある。

 

 二、()三世業報(さんぜごうほう)智力(ちりき)「三世の業報を知る智力」

 一切衆生の三世の業縁果報を知る。われわれが過去にはどんなことをやり、今どんな果をうけているかということを一切知る力が仏にあるという。

 

三、()諸禅(しょぜん)解脱(げだつ)三昧(さんまい)智力(ちりき)「諸の禅解脱三昧を知る智力」

禅とは、禅定で、心を一つに定めること、解脱とは悟りのことで、三昧とは一つの境涯に心を同じくすることで、同じような意味である。その力をもっていることをいう。

 

 四、知諸根勝劣(ちしょこんかつれつ)智力(ちりき)「諸根の勝劣を知る智力」

 われわれの根には、肉体上の根と精神的の根と二つ立て分けておりますが、目、鼻、口、耳、皮膚、心、これを六根といっております。また五根といって、信、智見、精進、定念、念力の五つが、われわれの生命の動きの一つになっております。

 それらの、いろいろの機根を知る智力があります。

 

 五、()種々(しゅじゅ)()智力(ちりき)「種々の解を知る智力」

あらゆる人々の理解する力のていどを、仏は明らかに知っている。

 

 六、()種々界(しゅじゅかい)智力(ちりき)「種々の界を知る智力」

仏はあらゆる人々の境遇を、それぞれ、こうだと知る智力をもっている。

 

七、()一切(いっさい)至処(いしょ)(どう)智力(ちりき)「一切の至る処の道を知る智力」

あらゆる人々の行いを見て、その人々が、どんな境界になるのか、将来を明らかに知る智力をもっている。

 

八、知天限無礙(ちてんげんむげ)智力(ちりき)「天眼無礙を知る智力」

天眼をもって、衆生の生死、善悪の業因をみるに、とどこおりのない智をいう。

 

 九、()宿命無漏(しゅくめいむろ)智力(ちりき)「宿命、無漏を知る智力」

 衆生の宿命すなわち前世の生活を知り、無漏涅槃すなわち成仏の境涯になる道を知る。

 

 十、知永断習(ちえいだんしつ)()智力(ちりき)「永く習気を断ずることを知る智力」

これは過去世の迷いの残っているのをなくす力、過去世の余習というものをなくすことを知る智力である。

 

 次は無所畏。これも四つの無所畏があります。

 

 一、一切智無所畏(いっさいちむしょい) 一切諸法において、ことごとく知り、ことごとくみる仏智をもっているので、仏は大確信をもっていて少しも畏れはない。

 二、漏尽無所畏(ろじんむしょい) 仏自ら一切の煩悩を断尽せりと知り、大衆の中において畏れないこと。

 三、説障道無所畏(せつしょうどうむしょい) 障道を説くに畏れず、彼は仏道を害すと分明に説く。われわれにいろいろな障りがある。その障りを説いて何ら畏るるところのない境涯である。

 四、説尽(せつじん)()道無所畏(どうむしょい)「苦を尽す道を説く無所畏」大衆の中に、無漏の苦道を説くに畏れず、われわれの苦しみをばなくす道を説くに畏れない。

 

 このように仏は、四無量、四無礙、十力、四無所畏、禅定、解脱、三昧というような境涯を完成して、一切畏れるところのない境涯に立っている。

 

 

舎利弗。如來能。種分別。巧説諸法 言辞柔軟 悦可衆心。

 

【舎利弗、如来は能く種々に分別し、巧に諸法を説き、言辞柔軟にして、衆の心を悦可せしむ】

 

(文上の読み方)

 舎利弗よ。そこで、この迹門の仏は、人々の因縁や欲望、教育のていど、生活というものがみんな違っている故に、種々に分けて巧みに諸法を教えるのである。その言葉は、柔軟で、みんなの心を悦ばしめるのである。

 ですから、この迹門の仏は、まだ三乗をおびているということになります。

 

(文底の読み方)

 末法の御本仏であられる日蓮大聖人様は、「よく種々に分別したり、巧みに諸法を説いたり、言葉をやわらかに、人々の心を喜ばせる」というような、生ぬるいことはいたしません。日蓮大聖人様は事の一念三千の御当体であられますから、久遠元初の御振舞いをそのまま実行なされるのである。すなわち南無妙法蓮華経のただ一法のみを、弘められるのである。

 また言葉は、やわらかでなく、厳父のごとき厳しさをもって折伏するのです。南無妙法蓮華経を唱えなければ地獄におちるというのである。みんなの心を喜ばせるどころか、怒らせてしまうのであります。しかし信心に入り大御本尊様を拝んでいきますと、人生のあらゆる諸法を巧みに説いて下さるのであります。また言辞もやさしく功徳をいただく故に、喜ばしくなってくるのであります。

 

(別釈)   

 末法の仏法になりまして、文底深秘の仏となりますれば、種々に法を分別しない。ただ人法一箇の御本尊を拝んで南無妙法蓮華経といいなさいと、それだけです。迹門の境涯だから分別するのです。巧みに法を説きようがない。人々の心を喜ばない、聞いたトタンには喜ばないでしよう。

 日蓮正宗の信心をした人で、「南無妙法蓮華経といいなさい、御本尊を拝みなさい、それで救われるのだ」といわれて、「ああそうですか。ごもっともだから、やりましよう」と喜んでやった人がいますか。

「ジョウダンいうな、そんなものやっていられるか」そしてヒドイ目にあってから「やってみようかな」やってみたら、「ダンダンよくなる法華の太鼓だ」というようなものです。信心してまいりますと、結局、衆心は悦可するわけです。

 

 文底深秘の大法においては、その方法を分別したり巧みに法を説いたりしない。その法に進むことによって、衆心が悦可してくるのです。信心をしっかりやってごらんなさい。十年目にはもう全部変るのです。性格が変るのではない。どういうものか性格は同じなのです。ミミッチイ人はどこまでもミミッチイのです。

ちようど川があり、そこに泥水が流れているとします。飲むこともできない汚い水なのです。それが十年間に、川の形は同じでありながら、もう清浄きわまりない水が流れるようになる。それと同じように、われわれの五体の中に持っている性格は変らない。

「お前は信仰して、十年も二十年にもなるのに、そのぺチャンコの鼻は治らないのか」といってもダメです。ペチャンコの鼻はどこまでいってもぺチャンコです。だが、その人に流れている生命が、実に浄らかな生命になるために、皮膚といい目の様子といい一つ一つの動作といい、みな何といいましようか、柔和な、清浄なものを、それでいて威厳のあるものを持つようになるのです。それが大御本尊様の功徳なのです。そうなってくると、悦可衆心、われわれの心を悦ばしめてくる。そうなった人は、いつでも晴々しいからして、悦ばざるを得ない。嬉しくなって、いつでも笑っていなければならなくなってくる。いつでもニコニコして朗らかだから、その人が商売すれば繁盛してくる。同じ買うなら、あのオカミさんのところへ行って買おう、ということになる。「あのオヤジさん、鬼熊みたいな顔してるが、何となくひきつけられてしまう」というようになる。会社へ勤めていれば、月給が上って上の位についてしまう。独身者なら、いいお嫁さんがくるということになる。それが悦可衆心になるのです。迹門の仏と文底深秘の仏とは、それほど違うのである。