妙法蓮華経方便品第二の講義 (4)本文解釈の(2)
所以者何。佛曾親近。百千萬億。無数諸佛。盡行諸佛 無量道法 勇猛精進 名称普聞 成就甚深。未曾有法 随宜所説。意趣難解。
【所以は何ん、仏曽て百千万億無数の諸仏に親近し尽くして諸仏の無量の道法を行じ、勇猛精進して名称普く聞えたまえり。甚深未曽有の法を成就して宜しきに随って説きたもう所、意趣解り難し】
(文上の読み方)
そこで、先ほどのように、一まず文上読み、すなわち釈迦仏法の読み方をいたします。
「所以は何ん」とは、前にお前たちには諸仏の智慧はわからないといったのは、どういうわけかということです。仏は今までに百千万億無数の諸仏に親近したというのです。釈迦仏法では歴劫修行といいまして、仏になるのには、あらゆる仏さまに御仕えし非常に永い間修行して仏になるのであって、すぐには仏にはなれないのです。(文底の仏法すなわち大聖人様の仏法は、多くの仏にあう必要などはなくて、すぐに御本尊様を信じて即身成仏する、直達正観の仏法であります)
釈迦仏法の歴劫修行というのは、たとえば一生の間、布施行をつむ、この次に生れたら、また布施行をする。それが終ると、忍辱の行を同じように何回も生れてはやりつくす、このようにして、あらゆる仏に親近して、はかり知れないほどの多くの修行をつくし、またその修行に勇猛精進するわけですから、その名前はあまねく十方仏土に聞えたというのです。
甚だ深くて、未だ曽てなかった、すばらしい法を成就したというのは、仏の境涯をえたということです。その結果、仏として宜しきに随うというのは、相手の心に随っていろいろと法を説くことで、意趣はさとりがたいというのは、釈迦がその法を相手の機根に応じて説く、その心が舎利弗等にはわからないということです。なぜならば、根本に法華経をおいて説いているから、わかりがたいというのであります。
(文底の読み方)
ところが文底から読みますと、南無妙法蓮華経の境涯は、こんなものではないのです。なぜかといいますと、最高の仏法がこの文底下種法門で、次が法華経文上脱益の本門、その次が法華経文上熟益の迹門となるわけですから、この文上の方便品は、文底下種法門とくらべると三重の劣になるのです。迹門の仏は百千万億の諸仏に親近して修行しましたが、文底の御本尊様はどうかといいますと、釈迦仏法のごとき歴劫修行はないのです。ただ南無妙法蓮華経とお唱え遊ばされており、またそれ自体が御本仏の御振舞いなのです。この文底の諸仏の御許に親近しないで、逆にあらゆる諸仏が、南無妙法蓮華経を師匠として仏になられたのです。故に文底から読むときは、南無妙法蓮華経という仏(御本尊)は、百千万億の請仏を出生した能生の根源ですから、所生の側、すなわち拝む方の側からいいますと、われわれは何の難行苦行もなく南無妙法蓮華経と唱えているだけで、百千万億の諸仏に親近した以上の功徳がある。また、それが諸仏の無量の道法を尽したことになるのです。
勇猛精進というのは、この御本尊様を受持して題目を唱えることです。
名称普く聞えたまえりとは、われわれが御本尊様を受持しているということは、あまねく十方仏土の梵天・帝釈・日月・大明星天・天照太神・正八幡大菩薩・鬼子母神・普賢菩薩・妙音菩薩等、あらゆる菩薩方にあまねく名前が聞えているということです。御本尊を受持し信心を熱心に勇猛精進する人は地涌の菩薩ですから、十方世界に名前が聞えるのは当然中の当然であります。
故に諸天善神の加護があるのも、また当然中の当然であります。
甚深未曽有の法を成就したとは、文底下種の大御本尊を、わが己身のうちにうちたてたということです。
末法の御本仏は、法は南無妙法蓮華経、人は日蓮大聖人様という人法一体(一箇)の大御本尊様でいらっしゃるのであります。
宜しきに随って説きたもう所、意趣解り難しとは、御本尊様がわれわれの悩みに応じて説いて下さるところの御心も、われわれにはわかりにくいというのです。たとえば「こんなに拝んでるのに、うまくいかない」とか、「この商売をやっていても、どうもうまくいかんから商売がえをしよう」といっているけれども、信心をしっかりやったために、商売をやったら、よくもうかっちゃった。そして「早くやれば良かった」ということになる。
初代の牧口会長も次のようなことをいわれた。「馬鹿の智慧は後から出る。だからわからないからといって、ぐずぐずいっていないで信心だけしっかりしていなさい。仏様のお心なんか判るものか」と。
仏様は先を見通しだし、こちらはお先は真暗で、過ぎ去った後の方だけ見通しなのだから、御本尊様のお心はわれわれには悟りがたいというわけです。ただまっしぐらに、御本尊様を、どんなことがあっても、信じてやっていけば良いのです。そうすれば必ず功徳がでる。途中で疑ったらダメです。一切法これ仏法なりと知ることを名字即の仏というのですから、何でも仏法だと考え、御本尊様中心にひたすら信心にはげみ、商売にもはげむことです。
(別釈)
われわれが御本尊を受持して信心するということは、これを受持即観心と申しまして観心本尊抄講義録にくわしく書いてありますからごらん下さい。御本尊を受持して題目を唱える、そのことが百千万億の諸仏に親近してえた功徳の何億倍になるのであります。これは大聖人様が観心本尊抄で、この無量義経の十功徳品の中から第七の功徳を引きまして、「未だ六波羅密を修行する事を得ずと雖も六波羅密自然に在前す」という言葉を引用されて仰せられています。いかなることかといえば、南無妙法蓮華経を受持し信心(観心)するものは、何の修行をしなくても、六波羅密(布施、持戒、忍辱、精進、禅、智慧の六行)の修行をしなくても、それを行ったと同じ功徳が現れるというのです。そして小乗の仏、権大乗の仏、あるいは迹門、本門の仏の因果の功徳を、全部こちらにいただけるのであります。
釈迦仏法の歴劫修行のように、これから何千万年も生まれてくるたびにエライ苦労をして、法華経の提婆達多品にあるように、阿私仙人の足をもんだり腰もんだり、薪を取ってきたりして、一千年も仕えて、その功徳によって仏になるというような修行を、今末法の世の中にやっておられるものですか。そこで大聖人様は、末法ではこんな方便品にあるような修行ではダメだ、御本尊に向って南無妙法蓮華経といえば、ここに仏になる因行果徳の二法を譲ってもらえる。何千万年も修行してきた方便品の仏たちよりも、南無妙法蓮華経とたった一言で、仏になる修行ができてしまうのであります。
舎利弗。吾從成佛巳來。種種因縁。種種譬喩。廣演言教 無数方便。引導衆生 令離諸著
【舎利弗 吾成仏してより已来、種々の因縁、種々の讐喩をもって、広く言教を演べ、無数の方便をもって、衆生を引導して諸の著を離れしむ】
(文上の読み方)
そこで、迹門の釈迦が舎利弗に向っていうのには、舎利弗よ、自分は仏になってより以来、人生とは、生命とは、こういうものです、おまえの今、貧乏しているのは、こういうわけです、あそこの人が病気で苦しんでいるのはこういう理由ですと、いろいろの因縁を説き、いろいろの譬喩を説いて、広く経文をのべて、仏法の大哲理というものを教えてきた。また無数の方便を用いて多くの衆生に教えて、不幸の原因となるという、もろもろの執着を離れさせてきたというのです。
これは迹仏の仕事であります。
大聖人様の仏法では執着を離れるのではなく、明らめるのであることは後にのベます。
(文底の読み方)
文底から拝すれば、舎利弗に告げてとは、われわれ末法の衆生にたいして仰せられるのである。吾れ成仏してより已来の吾は、日蓮大聖人様すなわち御本尊様を指し、已来とは久遠元初已来、すなわち無始無終を指すのです。日蓮大聖人様は、釈迦が第一番に成道した五百点塵劫のもっと以前から、すなわち始めがない久遠元初から、種々の因縁、種々の譬喩を説かれてきたのです。
種々の因縁とは、われわれは久遠元初において御本仏日蓮大聖人の眷属であったという因縁がある故に、今末法に日蓮大聖人の弟子として、苦悩に沈むこの敗戦国日本に、大聖人滅後六百何十年かに貧乏人と現われて、この御本尊様を信じて金持になるという姿をみせるのである。この南無妙法蓮華経の仏法を弘めて、三災七難におびえる日本の国に広宣流布をするという約束をしてきた因縁を思い出したならば、貧乏などという悩みは一ぺんに解消するのです。
譬喩とは、七百年前、大聖人御在世時代の強信者が、死身弘法にはげみ、功徳をうけきっている姿を示すのは、われわれにとって譬喩であります。
広く言教を演べとは、広く南無妙法蓮華経の御本尊を弘めることです。
無数の方便とは、末法の仏法では、正しき方便は、只利益と罰の二つの方便であり、無数というならば、日常生活のあらゆる状態が無数の方便になります。御本尊様は、この利益と罰の二つの方便をもって、末法の衆生を引導なさるのです。
諸の執著を離れしむるとは、先ほども申しましたように、方便品は文底仏法からみれば三段低い文上の迹門ですから、このように説いているのですが、執著を離れて人生はあるべきはずがありません。
これは御義口伝(七七三頁)の薬王品の項に「離の字をば明とよむなり」と仰せられているように、諸の執著を明らかにすると読むベきです。大聖人様は御義口伝において、法華経の文字をば、一箇所だけ変えられておられるのであります。
われわれには、みな執着があります。執着がなかったら、人間ではなくてお化です。執著がなかったら、この世の中はバラバラになってしまいます。政治も経済も教育も文化もなくなります。学校の先生が教員に執著がないから勤務にいかぬとしたら大変でしよう。
執著を執著として明らかにみればいいのです。その執著を明らかに見させてくれるのが御本尊様です。みんなに執著があるから味のある人生が送れるのであり大いに商売に折伏に執著し、われわれの信心で、その執著が自分を苦しめないようにし、自分の執著を使い切って、幸福にならなければならないのであります。
(別釈)
「因縁と譬喩」釈迦は法華経以前に説いた四十二年間の小乗教や権大乗教に、いろいろの因縁や譬喩を説いて衆生を教化してきたが、法華経の迹門にも因縁や譬喩が説かれている。
法華経の迹門は序品第一から安楽行品第十四までの十四品です。迹とは本にたいしてかげということです。この迹門では、われわれ人間というのものは三乗といって、菩薩になったり、縁覚になったり、声聞になったりするのが人生の目的ではなくて、一仏乗すなわち仏になるのが目的だと説いています。説かれた順に声聞の弟子が次々と成仏を許され授記をうけますが、それを三周の声聞といいます。まず第一番目に方便品では理論を説きます。これを聞いて判ったのが舎利弗等で、これを法説周といいます。機根が未熟で、それで判らなかった人には、種々の譬喩を説くわけです。譬喩とは、先ほどのべました窮児のたとえなどがそれです。その他、火宅のたとえなどもあります。このたとえを聞いて領解したのが、神通第一の目犍連(目連)、頭陀修行第一の頭陀迦葉、論議第一の迦旃延、解空第一の須菩提等です。これを譬喩周(喩説周)といいます。それでもわからないものには、因縁を教えます。どんな因縁かといいますと、たとえば、このような話もあります。
五百の弟子を連れて釈迦が、この隣の国に弘教のために行こうとして出かけた。ところが、そのときに、五百人の弟子が、みんな王様に、押し込められてしまいました。そして、毎日、百日というもの、馬の喰い物、燕麦ばかり食ベさせられた。みんなへこたれていたときに、釈迦はこういうことをいった。「お前らが麦喰うのは助かってるのだぞ。なぜかといえば、昔お前らはこの山で山賊をやっておった。ところが喰い物がなかったときに、ここに一人の法師がおられて、その法師が病気しとった。その法師に食物を、小僧が村里からもらってきたときに、お前らはそれをとって喰っちやったのだ。その因縁をもって、お前らはここに百日の間燕麦を喰わなきゃならない」と、そういわれた。これは因縁を説いたものです。しかし短い因縁です。だから、これは所破、破るために読むわけです。
こんなのは、ちっぽけな因縁です。たとえば、この世でわれわれがどうして、このように貧乏しなければならないか、それは過去世で泥棒をしたからだと説くのが、通途の仏法といいまして、釈迦仏法なのです。前にのベましたが、文底の因縁は、そんな低い因縁ではないのです。とにかく、化城喩品で大通智勝仏以来の因縁を聞いて成仏したのが説法第一といわれた富楼那等で、これを因縁周といいます。
『諸の箸を離れしむ』とは、先にものべましたごとく、文底の仏法では『諸の著を明らめしむ』とよむべきであります。
釈迦仏法においては、いろいろの執著は発展を妨げるものとして、阿羅漢や縁覚の境涯になるのに執著を断ち切る修行をしたのであります。しかし末法における大聖人様の仏法では意味がちがってきます。
末法今時においては執著を離れてはいけない。大聖人様は御義口伝の薬王品の項に「離の字をば明とよむなり」と仰せられているように、執著を離れさせるのではなくて、執著を明らめて使い切る境涯になれば良いのである。すなわち、みんなに執著があるから味のある人生が送れるのではないだろうか。商売に執著がない、夫や妻や子供に執著がなくなったというのでは、世の中がばらばらになってしまう。
昔、山の中から出てきて巨額の金を積み、又あおとの泣き別れで有名な塩原太助が、商売で小判を手離すときに、丁寧に小判を拭いて撫でながら「お前、又帰ってこいよ。はいッ」といってわたしたというが、そのくらい執著があるから、百万両もためることができるのである。
ところが煩悩と同じように、この執著に使われてはダメだと思うのです。たとえば煙草でも、一日に四十本も五十本も吸う、しまいには、おいしいどころか、頭がフラフラして嫌気がさす。これではダメで、最初の本当においしい二三本で止める。これが執著を使い切っているということになる。
「この執著はこの程度で、やめなきゃならないか。イヤ、これは思い切って執著してゆかなきゃならん」「この執著をするには、こういう理由があるのだ」と、明らかにみてゆけば、執著がいくら強くても、執著を捨てる場合にしても、はっきりしてきます。ただなんでも執著を離れろという教えは、末法の仏法にはならないのです。印度あたりの、まだ低級な民族の時には、こういう教え方も必要であったかも知れませんけれども、末法今日では、この教えは通らないのです。
本仏と迹仏との相違、教相の読み方と観心の読み方の相違を頭において、ここをよまなければならないと思います。
所以者何。如來方便。知見波羅密。皆已具足。
【所以は何ん、如来は方便・知見・波羅密、皆已に具足せり】
(文上の読み方)
これは、どういうわけかといえば、仏はどうやったら衆生をみちびいて、幸せにしてやれるかというてだてすなわち方便の波羅密(三つの方便を明瞭に知り一切に通達する仏の境智)や、智慧をもって人々を救う知見波羅密を、みなことごとく具足して、それをもって人々を救っているというのです。
(文底の読み方)
文底の意味において、まず所破として読むならば、この仏は迹門の仏ですから、末法御本仏の文底、事の一念三千の御本尊の力などは具足しているわけがないのです。
しかし、これを文底の仏すなわち大御本尊様と読むならば、真の方便、知見波羅密をことごとく異足しているのです。
大聖人様は、観心の本尊抄において、「ただ南無妙法蓮華経と唱えるだけで、この迹門の仏。本門の仏・権教の仏・その仏の因行果徳の二法が、ことごとくわれらの体にそなわる」と仰せられているのです。この具足は、権教、小乗教、迹門の仏、本門の仏の因行果徳、あらゆるものの具足を意味しております。ですから、大御本尊様のことを、輪円具足、あるいは功徳聚とも申します。
功徳のあつまりですから、あらゆる仏の幸福の原因、結果を具足していらっしゃいます。ですから病気をなおしたいときには、われわれに病気のなおる原因がなくとも、御本尊を拝むことによって、その原因がえられて、病気がなおるという結果もえられるのであります。