(2) 日蓮大聖人の仏法の読み方(文底読み)

 

 日蓮大聖人様が末法の世に御出現になって、世界中の末法の衆生に告げられた。

『末法の善男子諸氏よ。君らはまさに南無妙法蓮華経という仏(大聖人様)の本当の教えを、信じきりなさい』

 また、さらに(二度目)、末法の衆生に告げられた。

『君らは、まさに末法御本仏の本当の教えを信じきりなさい』

 またまた、さらに(三度目)、多くの末法の衆生に告げられた。

『君らは、まさに末法御本仏の本当の教えを信じきりなさい』

 それで、われわれ末法の衆生は、特に日本国の一切の衆生は、合掌して、末法御本仏、日蓮大聖人様にお誓い申しあげた。

『大聖人様よ。ただ願わくは、その教えを説いて下さい。私どもは、かならず御本仏の教えを信じ、その御本尊様を受持いたします』

 このように、それぞれ三度お願い申しあげた後に、また四度目に、重ねてお誓い申しあげた。

 『大聖人様よ。ただ願わくは、その教えを説いて下さい。私どもは、かならず大聖人の教えを信じ、御本尊様を受持いたします』と。

 この時に、御本仏は、多くの末法の衆生が、三度もお願いしても止めず、四度も誓いの言葉をのべたのを知って、四度いましめられてから、はじめて教えを告げられた。

 『諸君らよ。諦らかに聞きなさい。南無妙法蓮華経の仏の、一切衆生を救う秘密神通の力を。三千年前に印度に出現し、釈氏の宮殿を出て伽耶城の近くで悟りを開いた釈迦、またその本地である五百塵点劫に成仏した釈迦は、迹仏である。御本仏は末法に出現された日蓮大聖人様であらせられる。

 

 あらゆる末法の人たちは、みんな今の日蓮大聖人様は、小湊の海浜に御誕生になり、比叡修学の後、御年三十二歳の御時、清澄山で始めて、南無妙法蓮華経をお説きになったと思っているであろう。

 しかしながら、末法の衆生よ。ほんとうは、日蓮大聖人様は、無量無辺百千万億那由他劫のまた、その昔、久遠元初の大昔に、すでに南無妙法蓮華経の仏であったのである。

 釈迦の本地は五百塵点劫であるが、大聖人様の本地は、五百塵点劫のそのかみの久遠元初、すなわち無始の昔である。

 このような大昔については、あらゆる末法の衆生は、考えも及ばないのである。

 このような大昔から今まで、御本仏はこの娑婆世界にあって、説法教化してきたのだ。また、よその百千万億那由佗阿僧祇の国においても、衆生をみちびき利益してきたのだ。

 多くの末法の衆生よ。この久遠元初から末法現在までの中間で、日蓮大聖人様は過去に然燈仏などと垂迹したこともあるし、永遠に涅槃を現じてはまた生れ、また涅槃すると生命の本質を説いたこともあった。迹仏として出現されたときには、いろいろな方便を用いて分別したのである。

 多くの末法の衆生よ。日蓮大聖人様は久遠元初いらいの御本仏である。その南無妙法蓮華経仏からみると、五百塵点劫の釈尊も然燈仏も印度の釈迦も、すべて本仏たる南無妙法蓮華経仏の分身仏あるいは垂迹仏である。

 それら垂迹の仏として出現されたときには、衆生がきたとき、それらの衆生の諸根の利鈍をみて、化導するにふさわしいところにしたがって、処々に、仏の名前の不同、教化の年月の大小を説き、またまた現じて、まさに涅槃に入るだろうともいい、またいろいろの方便をもって微妙の法を説いて、よく衆生に歓喜の心をおこさせてきたのである。

 また、この末法に出現された御本尊様は、われわれ衆生が御本尊様の前にまいりますと、われらの信心や智慧などを考えられ、どうしたら救われるかということを考えられた上で、大きな慈悲と功徳とを下さるのです。純真に御本尊様を信じきり、五座三座のおつとめと、折伏をしっかりと行じ、商売に熱心であるならば、かならず幸福になるという文証です。

 名字の不同、年紀の大小ということは、御本仏は、生きていらっしやるときには、日蓮大聖人、亡くなられては本門戒壇の大御本尊と仰せられ、その仏の御名前と年月はちがいますが、同じくわれわれを化導して下さるのです。また涅槃に入るとは、大聖人様は亡くなられて、大御本尊様をお残し下さったことです。

 多くの末法の衆生よ。御本仏は多くの衆生が、大御本尊様を知らないで、念仏や禅宗、真言宗、日蓮正宗以外の一切の邪宗をやっている徳のうすい垢の多い者であることを知られた。

 

故にそれらの人々のために、大聖人様が、この世に生れられて出家して、竜口法難で仏になったと説かれている。

 しかし実には久遠元初すなわち無始の御本仏であらせられるのである。ただ大聖人様がこの世で仏道を修行されたとか、上行菩薩の再誕である等おおせられたのは、衆生を教化して成仏させるための外用の姿なのである。

 多くの末法の衆生よ。大聖人様の説かれた御書は、みな真実で間違いがなく、衆生を救うためのものである。大聖人様は御自分の振舞いを説き示されることもあるし、あるいは大聖人様が垂迹の形をとって、上行菩薩やその他の仏菩薩などの姿で説き示されることもある。

 

 なぜかならば、御本仏の智慧はすばらしいものだからである。御本仏は全宇宙のあらゆる現象を、ありのままに全部知見しておられる。われわれの生命は永遠であり、生老病死は本有であるから、退も出もない。われわれの生命は実でも虚でもない、如でも異でもない。また、御本仏の宇宙観は、欲望世界からとか、物質世界からとか、精神世界からとか、各部からみた部分観ではなしに、全体観において知見しているから、絶対に誤りがないのである。

 末法に御本仏が御出現になって、末法の衆生をみるのに、衆生には、いろいろの性質、いろいろの欲、いろいろの行、いろいろな考え方や分別がある。そこで、どうして、われわれを救おうかとお考えになり、われわれの状態に応じて、末法の善根である折伏によって功徳を得させようと思われて、いくらかの因縁やたとえなどをもって、三大秘法を説かれるのである。そして久遠元初いらい、大御本尊様のわれわれに功徳をうけさせようという仏のお仕事を、少しもやめられないのである。

 このように、日蓮大聖人様は、無始のむかし久遠元初に成仏してから、はなはだ大いに久遠であり、常住にして滅しないのである。

 多くの末法の衆生よ。日蓮大聖人様が久遠元初において、わが身は地水火風空の五大の御本仏であると悟られてから、大いに久しいのである。生命には本有常住の涅槃というものがあるが、一生けんめい題目を唱えて、このような自分の生命の姿に眼を開き、一層の御本尊様にたいする信心をおこしなさい。

 なぜかならば、仏や衆生に、もし死というものがないならば、非常に困ったことになるのである。すなわち、徳のうすい人は、絶対に死なないのですから、大御本尊様を少しも拝もうとはしないであろう。したがって折伏も行じないであろう。いくら貧乏しても平気で、自分の目先きの楽しみばかり追って、五欲に執着し賤しい人生を送るだろう。またデタラメな考えから抜けられない世の中になってしまうであろう。

 もし、われわれ衆生の生命が常住にして、滅しないとみるならば、窮屈な向上心なんか起さないから、おごりたかぶる、わがままな心だけを起し、仕事を怠ける気持をいだき、御本仏にたいする感謝の気持とか、お会いしたいという気持や、御本仏を敬う心を生ずることができない。

 この故に、御本仏は、人間に生れることも、なかなかできぬ、まして人と生れて、仏法の中の大正法、大御本尊様にお会いすることは、なかなかできないという姿を見せられるのである。

 ところで、薄徳の人すなわち南無妙法蓮華経の御本尊様を信じえない人は、無量百千万億劫をすぎても、なかなか大御本尊様にお会いすることはできないのである。こういうわけがあるから、重ねて大聖人様がおっしやるのには、御本尊様になかなか会いがたいと。

 この言葉をきいて、末法の衆生は御本尊様をしたわしく思い、なかなか会えないのだという心を起し、御本尊様を恋いしたう心を生じ、また御本尊様を渇仰して、功徳のもとである折伏を行ずるようになる。大聖人様の御生命は厳然として大宇宙に存在しているけれども、この故に、御本仏は涅槃という姿を示すのである。

 また多くの末法の衆生よ。あらゆる仏は、ことごとく、このようにして涅槃ということを示しているが、それはみな真実でいつわりではないのであるぞ。

 次に良医のたとえを文底から拝すれば、次のようになる。

 五百塵点劫の当初、久遠元初という無始の大昔に、久遠元初の自受用報身如来という御本仏がおられた。またの名を南無妙法蓮華経仏とも申しあげる。この仏さまは、智慧が非常にすぐれられ、明らかに衆病をよくなおす薬を作られた。これ南無妙法蓮華経の大御本尊様であらせられる。そして、身体の病気のみでなく、心の悩み、貧乏の悩み、一家の悩み、 一国の悩み、あらゆる悩みを全部解決されるのであった。この御本仏には、娑婆世界に十人、二十人、百人、いや沢山の子供がおった。ところが、御本仏が理由があって娑婆世界に御出現になられない留守の間に、これらの子供たちが、邪宗にたぶらかされて南無妙法蓮華経以外の恐ろしい邪宗教を信ずるようになった。

 そして、邪宗教の毒が、だんだん子供たちの生命にあらわれて、苦しみのあまり、地をころげまわった。これ、末法に生れて、邪宗の害毒で大不幸にあえいでいる、われわれ衆生の姿である。

 この末法の時、父なる御本仏が日蓮大聖人様として、娑婆世界の中にも、この日本国に御出現になられた。ところが、そこには、同じく邪宗教の毒薬を飲んだ中でも、本心を失った者と本心を失わないものとがあった。

 本心を失わない者とは、久遠元初の昔に、日蓮大聖人様の子供として、南無妙法蓮華経の聞法下種をうけていたことを思い出した人たちである。本心を失った者とは、このことを忘れていた人たちである。そして、はるかに父なる日蓮大聖人様のお姿を見て、みんな大いに喜び、ひざまづいて、お願い申しあげた。

 『よく御無事でお帰りになりました。わたしたちは、バカだったため、誤まって、邪宗の毒薬をのみました。どうか、この苦しみの生活から救って下さい。さらに幸福な寿命をいただかせて下さい」と。

 父なる日蓮大聖人様は子供である末法の衆生の苦しみ悩むのを見て、釈迦やその他のたくさんの教えから選りすぐって、いらないものをすて良きものをとり、戒も定も慧も、みなことごとく具足している正法を求めて、ついて、ふるって、まぜ合えて、一幅の大御本尊様をお認めになり、子供たちにあたえ、信心せしめられた。そして、次のように御本尊様の大功徳を約束された。

 『この良薬なる大御本尊様は、本門の本尊、本門の戒壇、本門の題目すなわち三大秘法の総在する南無妙法蓮華経である。お前たちは、この三大秘法の大御本尊を信じなさい。すみやかに苦しみは除かれて、またいろいろのどんな悩みも、全部なくなるだろうよ』と。

 子供である末法のわれわれの中で、本心を失わずに久遠元初の下種を思い出したものは、折伏をうけて三大秘法の立派なのをみて、すぐ日蓮大聖人がわれわれに賜わった大御本尊様を信じた。そして、今までの悩みがすっかりなくなった。

 のこりの本心を失い、久遠元初の下種を忘れてしまったものは、父なる大聖人様の帰られたのを見て、歓喜して、悩みの生活から立ち上りたいとお願いはしたものの、折伏されても御本尊様を信じようとはしなかった。なぜかならば、邪宗の害毒が、その人の生命に深くしみこんでしまって、すばらしい三大秘法の大御本尊様の功徳を教えられても、まだ疑いがとれなかったからである。日蓮大聖人様は、『ああ、この子どもらは、かわいそうなものどもだ。邪宗の害毒にあてられて、心がみなまがってしまった。父である自分を見て、喜んで救いをもとめながら、この大御本尊を少しも信じようとはしない。それならば、自分は今秘妙の方便をもちいて、この大御本尊を受持させることにしよう』と思われ失心の邪宗の人たちに告げられた。

 「お前たちは、よく知るがよいぞ。自分は、もう寿命いくばくもなく、死ぬ時も間近にせまっている。法性の淵底に帰る前に、この弘安二年十月十二日に認めた本門戒壇の大御本尊を日本国富士大石寺に残して行くぞ。お前たちは、この大御本尊を信じなさい。信ずれば必らず、あらゆる悩みを解決できるから、何も心配することはないぞ』といい残されて、弘安五年十月十三日、池上で、末法の御本仏、日蓮大聖人様は、後事を第二祖日興上人様に托されて、安らかに御入滅遊ばされたのであった。そして、代々の日蓮正宗の御法主貌下を御身代りとしてつかわされて、邪宗の人たちを折伏された、総じていえば、日夜歓喜にもえて折伏を行ずる学会員は、日蓮大聖人様のお使いであります。

 『あなた方の頼りにするものは、世の中には何もない。ただ一つの真の宗教である日蓮正宗のみだ』

 といって、折伏を行じたのである。邪宗の人たちは、自分たちがこの世で頼るものは、日蓮正宗以外にはないことを感じて、

 『もし、この世に仏様がいられるものなら、われわれを加護してくれるだろう。しかし、考えてみると、今までの宗教も全然頼りにならない。正宗の折伏をうけて反対したら、さんざん罰をうけた。自分はこの世で一人ぼっちだ』と、常に悲しみの心をいだいていたが、ついに折伏をすなおに聞ける時がきて、三大秘法の大御本尊を信ずるようになった。御授戒をうけ、御本尊様をいただき、五座三座の勤行と折伏にはげむことによって、邪宗時代にあった悩みはたちまち解決してしまった。

 そして、いよいよ信心強盛に大御本尊様をしっかり拝むようになると、大御本尊様が即日蓮大聖人様の御生命である、生身の仏であると感じられるようになった。また大聖人様の生命とわれわれの生命とが、ピタっとふれあい通ずるようになってくるのであった。

 多くの末法の衆生よ。心でどう思うか。本当に、この御本尊様が日蓮大聖人様の御当体であると信じているかどうか。また永遠の生命でありながら、死という姿をとることが納得できるかどうか。

『絶対に信じきります』とわれわれ末法の衆生は、御本仏にお誓いした。日蓮大聖人様のおっしやるには、『自分は久遠元初に成仏していらい、無量無辺百千万億那由佗阿僧祇もたっている。しかし、あるときには上行菩薩として、あるときには末法の本仏として出現して、生命の真実の姿をありのままに示して、その時々に入滅するのである」と、そのように説き終って、重ねて、この義をのべることを欲して、次のように自我偈を説かれるのである。

   自 我 偈

 日蓮大聖人様は今から七百年前に御出現になって仏になったものでもなく、また比叡山で修行して仏の境涯をえられたものでもない。仏になられてから、このかた、無量百千万億載阿僧祇以上のたくさんの劫数をへておられる。この間も、常に正法を説いて数限りなく多くの衆生を教化して、それらの衆生を仏道に導き入れてきた。それからでも、また数限りない劫をへている。

 またここで、自我得仏来というのは、我は法身如来、仏は報身如来、来は応身如来、この三身即一身の境涯を自得せる方は、人では御本仏日蓮大聖人、法では南無妙法蓮華経、これ三大

秘法の大御本尊様であられる。

 このように大宇宙とともにある永遠の長い寿命であるが、妙法の理にしたがって死の生命を現ずるのである。しかし決して生命がなくなったわけでなく、なくなられた後でも、大御本尊様として、常にこの娑婆世界でも、またあらゆる世界で法を説いているのである。

 日蓮大聖人様はいつも、この娑婆世界に住んでおられる、現在は富士大石寺におわします戒壇の大御本尊様として出現されているのだが、多くの邪宗のものたちは、近くにいながら、かわいそうにも日蓮大聖人様の御当体とは気がつかないでいるのである。

 みんなは日蓮大聖人様のなくなられたのを知って、法身の舎利であられる大御本尊様を恋いしたって、渇仰する心を生ずるようになった。

衆生はすでに御本尊様に信伏して、御本尊様の前にはすなおになり、一心に大聖人様を見たてまつらんと欲して、自ら身命をも惜しまず題目を唱えるようになった。この時に、日蓮大聖人様すなわち御本尊様の御力が、われわれの身体に満ち満ちてくるのである。

 日蓮大聖人様は更に次のように説かれた。日蓮大聖人様は常にこの娑婆世界におられて死なれることはない。永遠に常住しているのだけれども、秘法の方便として滅不滅を現じているのである。

 そして、地球外の余国に衆生があって、仏を敬いたいと法を求むるならば、三大秘法の南無妙法蓮華経を説くのである。御本仏が分身散体の法理によって、他の天体にも分身仏としてお出ましになるのである。ところが、末法の衆生はこれを信じないで、仏なんかいるものかと思っているのは、あさはかなことだ。

 日蓮大聖人様が多くの末法の衆生を見ると、みんな苦しみ悩む生活におちている。しかし、われわれをお救い下さるために、現身をお現わしにならずにおき、われわれに渇仰の心を生じざせて、御本尊様を恋いしたうようになったところで、信ずることによって御本尊様の功徳があらわれるのである。これ御本尊様の神通力であり、広大無辺の御力をもっておられるのである。

 日蓮大聖人様は昔からいつも、霊鷲山すなわち富士大石寺や、各寺院あるいはわれわれの家に、大御本尊様としてお出で遊ばす。もしも衆生の福運がつきて、煩悩の大火に焼かれ世間がどんなに困っても、大御本尊様を信じて持つところは安穏である。一家を例にとれば、天界、人界の人たちが、常に楽しみきっている。

 豊かな園林やいろいろの堂閣は、種々の宝で飾られている。まわりの宝の樹には、美しい花や果が一杯である。また家中の人が楽しく暮している。みんな健康で元気な生活を送っている。いつも、いろいろな音楽や歌舞を湊し即ち一家がいつも笑いさざめいている。夫からはめでたい曼陀羅の花がふって、ボーナスなどが家中を喜ばせてくれる。そのボーナスで、お山にお参りしたり御供養をしたり仏壇を買ったりする。そうなれば、わが浄土たる家庭は幸福なのである。

 このように、御本尊様を持つ家庭は、 いつも幸せなのに、邪宗をやっている家庭は、煩悩の火に焼きつくされて、憂いや怖れや、いろいろの苦悩が充満しているのである。

 この多くの罪の重い衆生は、邪宗の悪業とのくされ縁で、いつまでたっても、仏法僧の三宝の名すなわち正しい御本尊様を知らないでいるのだ。しかし、大御本尊様を拝んで、折伏を行じ、熱心にすなおに信心している人だけが、御本尊様の大功徳を身にうけて知っているのである。その人々は仏の寿命もわれわれの生命も永遠だということを悟ってくるのである。久しくして御本尊様に会えたものは、なかなか値いがたい御本尊様にお目にかかったのだという大歓喜がわいてくるのである。

 御本尊様の御力はこのようにすごいのである。御本尊様の大功徳の光は、大宇宙にあまねく輝きわたり、また永遠に消えないのである。また、この御本尊様の御力は久遠元初のとき即座に悟りを開かれ南無妙法蓮華経と唱えられていらい尽きることはない。

 お前たち、末法の衆生の中で、御本尊様を信じて智慧をいただいている者は、ここにおいて断じて疑いを生じてはならないぞ。もし疑いがあったら、すぐに断じてしまいなさい。日蓮大聖人様の言葉はすベて真実でウソはないのだ。法華経の文上では、父の良医が方便で、病気で狂った子をなおすのに、実際には死なないのに死んだといって、薬をのませてなおしたというたとえのようなものだといっている。

 日蓮大聖人様は世の中の父であり、どんな苦しみでも、どんな悩みでも全部救われる末法の御本仏であらせられる。大聖人様は生命論をお説きになるときは「生死の理を顕わさんがために人は死ぬのだ」とおっしやっている。

 御本尊様はいつもわが家におられるから、信心がたるんでくると、のぼせて、わがままな心を生じ、放逸で、目、耳、鼻、口、皮膚の楽しみという五欲に執着したりして、御本尊様にたいする信心が、いよいよたるんで悪道におちることもある。

 御本尊様は常に、われわれが本当に御本尊様を信じまいらせて折伏しているか、あるはやっていないかを、きちんとお知りになった上で、その人の態度にしたがって、どうして救おうかと考えられて、いろいろに罰と利益を下さるのである。

 御本尊様はいつも、われわれのことを心配され、どうしたら、あらゆる人々を、この南無妙法蓮華経の力によって、みんなを早く成仏の幸福な境涯にしてやりたいものだと、常に念じておられるのである。