杉並支部第一回総会(昭和二十七年三月二日 東京・常在寺)


過去世の謗法


 きょうは、講演などということでなしに、みんなと膝をつき合わせて話してみたいと思う。
 世の中には、謗法のものと、そうでないものとある。このことは、三世の生命を信じないものにはわからないのだが、われわれは過去に生きてきたのである。


 そのときに、謗法があったか、なかったか。過去世に謗法のないものが折伏に行くと、反対した相手に、すぐ罰が出る。謗法したものは、折伏しても、相手になかなか罰が出ない。しかし、反対され、悪口を言われて、自分の謗法の罪が消えるのである。


 つぎに、入信するときも、謗法のなかったものは、すぐに入る。謗法のあるものは、その程度によって、入信まで日数がかかる。

 法力・仏力を示すために、初信の功徳が現れるが、その後がたいへんなのである。

 

 過去に謗法のなかったものは、その調子でずんずん良くなる。反対に、謗法のあったものは、それを消すために、いろいろ事件が起こる。このときこそ大切なときなのである。


 兄弟抄に「魔競はずは正法と知るべからず、第五の巻に云く『行解既に勤めぬれば三障四魔紛然として競い起る乃至随う可らず畏る可らず之に随えば将に人をして悪道に向わしむ之を畏れば正法を修することを妨ぐ』等云云」(御書全集一〇八七㌻)とある。


 この魔に負けたら、成仏できないのである。
 四魔のなかで、天子魔というのは、信仰をやめなければならぬようにするのである。このときが、大利益を得るか、いなかのせとぎわなのである。このことは、ふだんこうして話しているときはわかるが、いざ、自分が問題につき当たったときは忘れてしまう。


 成仏というのは、すごい境涯である。その証拠として、死ぬまえにほんとうの歓喜の生活が送れるのである。きのう、中野の総会で、ある老婆の体験談を聞いたが、その人は、養老院の迫害のなかで、喜びに満ち、確信をもって、題目を唱えている。しかし、惜しむらくは、遅すぎた


 みなさんは、この老婆に比較すれば、はるかに若い。いま幸福をつかまなくて、いつ、そのときがある。ますます信心を強盛にして、永遠の幸福をつかまれんことを。


              (昭和二十七年三月二日 東京・常在寺)