第六回総会(昭和二十六年十一月四日 東京・家政学院講堂)
創価学会の大誓願
まず最初に御書を拝読いたします。
北条時宗への御状(御書全集一六九㌻)
謹んで言上せしめ候、抑も正月十八日・西戎大蒙古国の牒状到来すと、日蓮先年諸経の要文を集め之を勘えたること立正安国論の如く少しも違わず普合しぬ、日蓮は聖人の一分に当れり未萠を知るが故なり、然る間重ねて此の由を驚かし奉る急ぎ建長寺・寿福寺・極楽寺・多宝寺・浄光明寺・大仏殿等の御帰依を止めたまえ、然らずんば重ねて又四方より責め来る可きなり、速かに蒙古国の人を調伏して我が国を安泰ならしめ給え、彼を調伏せられん事日蓮に非ざれば叶う可からざるなり、諫臣国に在れば則ち其の国正しく争子家に在れば則ち其の家直し、国家の安危は政道の直否に在り仏法の邪正は経文の明鏡に依る。
夫れ此の国は神国なり神は非礼を稟けたまわず天神七代・地神五代の神神・其の外諸天善神等は一乗擁護の神明なり、然も法華経を以て食と為し正直を以て力と為す、法華経に云く諸仏救世者・大神通に住して衆生を悦ばしめんが為の故に無量の神力を現ずと、一乗棄捨の国に於ては豈善神怒を成さざらんや、仁王経に云く「一切の聖人去る時七難必ず起る」と、彼の呉王は伍子胥が詞を捨て吾が身を亡し・桀紂は竜比を失って国位を喪ぼす、今日本国既に蒙古国に奪われんとす豈歎かざらんや豈驚かざらんや、日蓮が申す事御用い無くんば定めて後悔之有る可し、日蓮は法華経の御使なり経に云く「則ち如来の使如来の所遣として如来の事を行ず」と、三世諸仏の事とは法華経なり、此の由方方へ之を驚かし奉る一所に集めて御評議有って御報に予かる可く候、所詮は万祈を抛って諸宗を御前に召し合せ仏法の邪正を決し給え、澗底の長松未だ知らざるは良匠の誤り闇中の錦衣を未だ見ざるは愚人の失なり。
三国仏法の分別に於ては殿前に在り所謂阿闍世・陳隋・桓武是なり、敢て日蓮が私曲に非ず只偏に大忠を懐く故に身の為に之を申さず神の為・君の為・国の為・一切衆生の為に言上せしむる所なり、恐恐謹言。
文永五年戊辰十月十一日
謹上 宿屋入道殿
日 蓮 花 押
ただいま拝読の御書は、文永五年、蒙古より日本へ牒状ありしとき、日蓮大聖人様が、断固として日本国を諫暁されたところの御書であります。日蓮大聖人様は、権勢に恐れず、富貴にこびず、万衆をあわれみ、末法一大利益の南無妙法蓮華経を授けられた大聖哲であります。
創価学会の魂とは、日蓮大聖人様の魂を魂とし、一乗妙法の力で、日本人をして大日本民族たらしめんと、邪宗との闘争をもって当たるのが、学会精神であります。
次に学会の目的について述べるならば、奇しくも、日本国に仏法渡来してより七百年、末法御本仏日蓮大聖人様ご出現あそばされ、権実雑乱を正されて七百年、大聖人様立宗なされてより七百年を明年にひかえる今日、日本国あげて本尊雑乱の時はきたのであります。
学会はいま、日蓮大聖人様の命をうけて、弘安二年十月十二日にお顕しになられた、一閻浮提総与の大御本尊様を、日本に流布せんことを誓う。これ第一条であります。
第二は、東洋への広宣流布であります。
顕仏未来記にいわく、
「月は西より出でて東を照し日は東より出でて西を照す仏法も又以て是の如し正像には西より東に向い末法には東より西に往く、妙楽大師の云く『豈中国に法を失いて之を四維に求むるに非ずや』等云云、天竺に仏法無き証文なり漢土に於て高宗皇帝の時北狄東京を領して今に一百五十余年仏法王法共に尽き了んぬ、漢土の大蔵の中に小乗経は一向之れ無く大乗経は多分之を失す、日本より寂照等少少之を渡す然りと雖も伝持の人無れば猶木石の衣鉢を帯持せるが如し、故に遵式の云く『始西より伝う猶月の生ずるが如し今復東より返る猶日の昇るが如し』等云云、……仏記既に此くの如し汝が未来記如何、答えて曰く仏記に順じて之を勘うるに既に後五百歳の始に相当れり仏法必ず東土の日本より出づべきなり」(御書全集五〇八㌻)と。
かくのごとく、日蓮大聖人様は、釈迦の仏法にあらず、末法唯一の仏法の出現を予言せられ、しかも、南無妙法蓮華経は、日本国より、朝鮮、中国、インドへと、かならず渡るとの予言であります。立宗以来七百年、日本に仏法渡って千四百年、もしもこの南無妙法蓮華経が東洋へ行かずば、日蓮大聖人様のおおせは妄語となり、大聖人様の仏法は虚妄となるのであります。大聖人様の予言を果たす仏の弟子として、東洋への広宣流布を誓う。これ第二の目的であります。
第三に、日蓮正宗総本山をはじめとして、全国五十有余の末寺にいたるまで、荒れはてなんとしている現状であります。これは、いままでの檀信徒が、題目のみを唱えて折伏をせず、本尊流布をしないゆえであります。
しからば学会はいかん。総本山との交流をはかり、「日蓮正宗、日本にあり」と仏法界に示すこと、すなわち学会魂で、以上の三箇条を遂行するのが、わたくしの目的であり、学会一同の願いなのであります。
ともに手をとって行こうではありませんか。かんたんでありますが確信を述べて、本日のことばといたします。
(昭和二十六年十一月四日 東京・家政学院講堂)