八月度支部長会(昭和二十六年八月三十一日 東京・神田の学会本部)
指導者の立場
入信者の数からみた場合、われわれの目的地は、あまりにも遠すぎる感がある。二十年、三十年後を予想する大業であれば、短期間の成績によって、うんぬんはいえないことではあるが、世界の情勢とにらみあわせたとき、これではならない。来月は、しっかりがんばってもらいたい。
各支部の報告からみて、支部長の熱と確信がいかに支部活動の成績に響くかが明瞭である。
全東洋へなさればならぬ事業を、いま、日本において行っている。それが、われわれなのである。
諸君は、「始めはしるしなきやうなれども」(御書全集一一九〇㌻)云云の御聖訓を、がっちり腹にすえて立つべきときです。かならず成る大業である。これは、戸田の主観ではない。
権実相対のときは実を、種脱相対のときは種を、本尊混沌のときは。その峻別がもっともたいせつなのである。これが現在の仏法なのである。御本尊様に対しての確信なくしては、信仰はなく、信力・行力がなければ、功徳はあらわれないのである。
教化親ということばは、仏立講等においていいだしたことばであって、信仰の紹介者を親と立て、師とあおぎ、その支配下にあるといったような考え方で、依法不依人の仏法をそこないやすい悪いことばであり、誤った考え方であるから、今後絶対に用いぬよう。
学会は組織体であるから、支部長とか、部隊長等があり、その指揮に従って行動することは当然であるが、教化親とはぜんぜん違ったものであるから、混同することのないようにしていただきたい。自分を折伏してくれた恩人は、善知識というのであって、「師にもあらず、弟子にもあらず」という立場なのである。
学会において、教化親などとのことばをつかい、折伏した人をあたかも自分の意志どおりに動かしてよいのだというような誤った考えをもつものは、断固として処分するゆえに、このさい、はっきり認識しておいていただきたい。
(昭和二十六年八月三十一日 東京・神田の学会本部)