臨時総会(昭和二十六年七月二十二日 東京・家政学院講堂)
創価学会の確信
わたくしは、創価学会理事長を学会創立以来つとめ、故牧口会長とは影の形にそうごとく、生死をともにするために生まれてきたのである。
牧口会長のあの確信を想起せよ。腰抜け坊主が国家に迎合せんとしたとき、「日蓮正宗をつぶしても国家諌暁をなさん」との厳然たる命令は、絶対の確信のほどがしのばれるのである。
わたくしは五月三日、会長に就任し、学会は、「生命は永遠であり、われわれこそ、末法に七文字の法華経を流布すべき御本仏の眷属なり」との自覚を生じて、牧口会長が口ぐせにいわれていた発迹顕本をしたのである。
この確信において、広宣流布大願の曼荼羅をお願い申しあげ、精兵集い寄って、壮大な開眼奉戴の式が営まれたのである。
日蓮大聖人様は、われら学会員の位を、御書に「四味三教の極位・諸宗の元祖に勝出すること百千万億倍の大菩薩なり」(趣意 御書全集三四二㌻)と決められており、かかる勇気にみち、一糸乱れぬ統帥のもと、足並みそろえて大折伏に行進する団体は、七百年間、いずこにあるか。各会員、講義に、折伏に、火の玉のごとき状態である。
静かに、日蓮大聖人様立宗より、大御本尊様御建立までの、東洋および日本の姿を注視せよ。弘安二年、宋が滅び、日本も元の国力をして討ったなら、風前のともしびであった。当時の姿は、今日の日本民衆が原子爆弾におびえきっていると同様であり、このとき、末法の御本仏は、南無妙法蓮華経の御本尊様と現れて、全世界の民衆を救う礎をたてられたのである。そして、本尊流通、戒壇建立を、後の末弟に残されたのである。
日蓮門下七百年の願望は、日興上人様にたまわった日蓮一期弘法付嘱書のごとく、本門寺の建立であるが、これを三秘の法門の「勅宣並びに御教書」のおことばにとらわれ、広宣流布と戒壇建立とを逆に考えているものが多いが、いまのごとき弱小の日蓮正宗教団に戒壇が建ったとしたら、一国謗法で、大御本尊様のありがたさを知らず、一個の名物がふえたていどで、邪宗の札のごとく御本尊様を粗末にあつかうとき起こる難は、どんなものであろうか。
日興上人様御おおせの、「未だ広宣流布せざる間は身命を捨て随力弘通を致す可き事」(御書全集一六一八㌻)のごとく、自己の位置を自覚した大菩薩は、まず御本尊様の流布を、身命を捨ててなさねばならぬ。
「仏法必ず東土の日本より出づべきなり」(御書全集五〇八㌻)とは、世界の仏法であるとの御金言であり、また諌暁八幡抄に「天竺国をば月氏国と申すは仏の出現し給うべき名なり、扶桑国をば日本国と申すあに聖人出で給わざらむ、月は西より東に向へり月氏の仏法の東へ流るべき相なり、日は東より出づ日本の仏法の月氏へかへるべき瑞相なり、月は光あきらかならず在世は但八年なり、日は光明・月に勝れり五五百歳の長き闇を照すべき瑞相なり」(御書全集五八八㌻)、また顕仏未来記に「正像には西より東に向い末法には東より西に往く」(御書全集五〇八㌻)のおことばに明らかなごとく、全東洋への広宣流布は、かならず成し遂げられることを確信するものである。
(昭和二十六年七月二十二日 東京・家政学院講堂)