第三回総会(午前) (昭和二十三年十月十七日 東京・神田の教育会館)


死身弘法で広布を


 日蓮大聖人様は、開目抄に「詮ずるところは天もすて給え諸難にもあえ身命を期とせん、身子が六十劫の菩薩の行を退せし乞眼の婆羅門の責を堪えざるゆへ、久遠大通の者の三五の塵をふる悪知識に値うゆへなり、善に付け悪につけ法華経をすつるは地獄の業なるべし、大願を立てん日本国の位をゆづらむ、法華経をすてて観経等について後生をごせよ、父母の頸を刎ん念仏申さずば、なんどの種種の大難・出来すとも智者に我義やぶられずば用いじとなり、其の外の大難・風の前の塵なるべし、我日本の柱とならむ我日本の眼目とならむ我日本の大船とならむ等とちかいし願やぶるべからず」(御書全集二三二㌻)と。


 末法今時の五濁爛漫の代に生をうけ、無上・最高・最大の大御本尊様を受持したわれわれは、理の当然におきまして、御本仏日蓮大聖人様の眷属たるに間違いありません。大聖人様の眷属として、大御本尊様を主とあおぎ、師と尊び、親と慕いまいらせるかぎり、大聖人様の御本願のごとく生きるのがわれわれの道であり、御本仏のおめがねにかない、かつ、これが最大最高の幸福でなくてはなりませぬ。


 「詮ずるところは天もすて給え諸難にもあえ身命を期とせん」と。わが学会人は、妙法のためには身命を捨てる覚悟でなくてはなりません。命を捨てて御本尊様を護持する功徳のゆえに、御本尊様は感応ましまして、諸願は満足するのであるが、かくのごとき功利的な立場は、初信の行者にこそ必要であって、われわれにいたっては、大聖人様の御心を心として、ただただ命がけであるだけなのである。


「善に付け悪につけ法華経をすつるは地獄の業」で、幸福なぞは絶対にあるわけはないのであります。


「身子が六十劫の」云云とおおせのとおり、今生において、御本尊様に仕えまつるのに、心弱くして捨てまいらせたなら、何億万年の後にお目通りをなしうるものやら。それを思うと、かくおおせくださった大聖人様のご慈悲、ただただ涙なしには拝せられませぬ。


 また「日本国の位をゆずられる」「父母の首を刎ねる」との誘惑やおどかしにおどされて、どうして、その無上・最高・最大の信仰を捨てられましょうや。


「智者に我義やぶられずば用いじとなり」と、この大信念、いまわれわれ弟子どもは、この大聖人様の御義たる生命哲学をもって、日本民族復興の指針としなくてはなりません。


 この義、ここに立てて、共産主義にも、観念哲学にも敗れるわけはありません。敗るるとすれば、弟子どもの罪であって、罪、堕地獄に当たるのであります。さればこそ、「其の外の大難・風の前の塵」でありましょう。


 日本の国の敗れた原因は、「我日本の柱とならむ我日本の眼目とならむ我日本の大船とならむ」と叱咤せられた大聖人様の教えを、教えとしてあおがぬ者の仏罰であると、わたくしは断じます。いまこそ、柱をおこし、眼目をひらき、大船をつくるべき時である。学会人一同、おおいに心を同じうして、法のために命を捨てようではありませんか。
                  (昭和二十三年十月十七日 東京・神田の教育会館)