談話(昭和二十三年五月 「価値創造」紙上)


前世の罪障


  日蓮大聖人様は、開目抄に「功徳は浅軽なり此等の罪は深重なり」(御書全集二三三㌻)とおおせられているが、よくよく現在のわが身にあてて、このおことばを考えてみる必要がある。


 初めに信仰したときには、初信の功徳といって、思いがけない大利益を得ている。ところが、一年でも、三年でも、強盛に信仰をつづけていけば、壁につきあたったような感じで、どうにも身動きのとれなくなることがある。幸福になるために信仰したはずなのに、どうして、こんなに罰ばかりだろうといって、かえって仏を怨むこともある。


 ところでこれは、わたくしたちが久遠の昔からなんどもなんども生まれてきて、謗法をしたり、悪いことをした業報が八種類もあって、この業報を、つぎつぎと生まれてきては一つずつ消してゆくはずのところを、強く信仰することによって、この世でぜんぶ消してしまって、最後には、仏の境涯というすばらしい幸福を、この世でつかむのである。


 わたくしたちは、莫大な罪をおかしてきているが、現世にその報いを軽く受けるのは、護法の功徳力によるのであってみれば、かえって、大罪を小罪で消されることを喜ばなければならない。これを転重軽受法門とも申されたのである。


 たとえば、小指の先をつぶしたものが、小指だけをみていれば、いかにも不幸であるが、この人は腕一本を失う罪報をもって生まれてきているならば、かえって腕一本のかわりに小指の先で罪を消してしまうのはありがたいことです。ただ、一般の邪宗教と違うのは、かならずこの世ですごい幸福をつかむことである。


 八難とは「①或は軽易せられ ②或は形状醜陋 ③衣服足らず ④飲食麤疎 ⑤財を求めて利あらず ⑥貧賤の家 ⑦及び邪見の家に生れ ⑧或は王難に遇う」(佐渡御書 御書全集九五九㌻)である。


 日蓮大聖人様は、「衣服不足は予が身なり飲食麤疎は予が身なり求財不利は予が身なり」麤等とおおせられて、末法における法華経の行者が、いかに多くの艱難と戦って修行しなければならないかを、身をもってわれら凡夫に示されたのである。だから、どんなことがあってもひたすら信仰強盛に励むとき、「無上宝聚・不求自得」というすばらしい境地がこつぜんと現れてくるのである。
                 (昭和二十三年五月 「価値創造」紙上)