第二回総会(午後)(昭和二十二年十月十九日 東京・神田の教育会館)
創価学会の使命
いま、つらつら日本国土を見るに、所として華洛の土がありません。
インフレの波にもてあそばれて生活の惨苦に悩む人々、あすの不安に焦燥を感じて生気を失いゆく父や母、あるいは家を失い家を求めて血みどろのもの、また、巷には夜な夜なの強盗さわぎ、個々の職業にあっては、その資材の不足、資金不足、労働力の減少等、絶えざる不安定感は、全国に充満して、どこに真の楽土ありといたしましょう。
この国土を救いたい、この民族に楽土を与えたいと、こいねがわないではおられないのは、わたくしどものみではないでありましょう。自覚ある人である以上、自己一身の保全に汲々たるのみで晏如たりうるものでありません。しかるに今日の現状は、自己一身の保全、または一家の保全すら、見通しをなしえない状態なのであります。
かかる苦悩の世の中を救うには、仏教の真髄を世に弘むる以外に方法はないと、二人の大哲人が、遠くは三千年の昔、近くは七百年の昔に、釈迦と現れ、日蓮大聖人様と現じられて、大声喝破しておられるのであります。
幸いにも、われわれ学会人は、この御仏のお教えに随順するものの集まりであります。仏教の真髄とは、日蓮正宗の謂で、日蓮正宗を除いては真の仏教はないということは、文証について、理証について、わたくしのつねに説くところであり、諸君がつねに現証について、よく体験せられているところであります。
体験は生活であり、その生活に現証を得られた以上、われわれは日蓮大聖人様に随順して、大聖人様の文底秘沈の妙法を、個人の救いのために、国土、民族、いな全宇宙の衆生を救わんがために、説かなくてはならないのであります。
われらは、日蓮大聖人様御図顕の大御本尊様のご威徳、広大なる大聖人様のご慈悲によって、このようなつまらぬ凡身に仏を感応することができる大果報を喜ぶとともに、人々にもこの喜びをわけて、仏の国土を清めなくてはならない。当然のことでございます。この当然の行為は、すなわち、われわれをして仏の使いたらしめるものであります。さればまた、仏からつかわされたものとして、慈悲の袋に救いの源泉をつつんで人々にあたえること、これを折伏というのであります。折伏こそ学会の使命であり、信条であるのであります。
されば、吾人は、仏を感得しうるの大果報人であるとともに、世の中に大確信を伝えなくてはならないのであります。仏に貧乏があってなるものですか。仏が三世の仏菩薩、諸天善神に守られなくてなんとしよう。現世はかならず安穏であること疑いないのであります。
されば、仏の集まりが学会人であると悟らなくてはならないのであります。迷える人々を、仏のみもと、すなわち日蓮正宗の御本尊様の御もとに、案内するの集まりであると知らなくてはなりません。
このためには、けっして、信仰や折伏を、自分の金もうけや都合に利用してはならないのであります。仏罰の恐ろしさを知るならば、そんなことはけっしてできえないので、世にいう悪などということの何千倍の悪であります。
学会は名誉のためにも、金もうけのためにも、寄付をもらうためにも、動いてはならないのであります。ご利益や大果報は、御本尊様からのみ得られると確信すべきであります。
もともと、わが創価学会は、故牧口常三郎先生の提唱と実行運動に、その端を発し、いま不肖、非才をもかえりみず、先生なき後の学会の理事長として、先生の意志をつぐものであります。
先生の後半生、すなわち創価学会の活動以来の先生は、多くの悪口、罵詈、誹謗があたかも先生の全人生のごとくであって、そのなかになんら恐るるなく、日蓮正宗流布のために寧日なかったのであります。しかも、軍閥主義の横暴と、時の警視庁の小役人の無知蒙昧から、ついに牢死までなされて、御仏に命を捧げたお方であります。
されば、その後をつぐわれわれも、三障四魔紛然としておこるとも恐るるなく、三類の強敵、雲のごとく集まるも、日蓮大聖人様のおことばを信じ、霊鵞山会に参ずるときは、三世常恒の御本尊様に胸を張ってお目通りのかなうよう、たがいに努めようではありませんか。
(昭和二十二年十月十九日 東京・神田の教育会館)