第二回総会(午前)(昭和二十二年十月十九日 東京・神田の教育会館)


三世の因果


 閻魔のそばに行って「おまえは、生きている間に、こんな悪いことをしたろう」といわれると、亡者は「わたくしはなにも、そんな悪いことをいたしません」という。閻魔王は「それ、そこにある浄玻璃の鏡を見よ」という。そうすると、浄玻璃の鏡に、前世の悪事の姿がそのまま映り出して、うそがいえないということですが、これは地獄のさまを説明した釈迦の低い教えで、いま申しますならたとえ話にすぎないのでございます。


 釈迦が、なんのために、こんな教えを説いたのでしょうか。また事実、浄玻璃の鏡は、ないものでありましょうか。


 この娑婆世界においては、わたくしどものこの身、その境遇が、浄玻璃の鏡なのでございます。過去世にわたくしどものなした業が、この現世にわれわれの心身に業報として感ずるのでございます。人はみな、性欲が不同で、種々さまざまのことをやっておりますから、この世の人は、同一の境涯に生まれるということができないのであります。

 

 同じ親に、同じように育てられた兄弟でも、同一な生涯がないのは、この理由であります。現世、過去世、未来世ということを、信ずることのできぬものが充満していることは、なげかわしいことでありますが、これが生命の実相であり、仏教の根本でございます。


 これを十不善業の業報に照らしてみますならば、この世で多病である、また短命である人は、「殺」の報いでありまして、この身を浄玻璃の鏡として、過去世の殺を映し出しているのであります。

 貧窮で失財の人は盗みの報いであり、眷属不良で婦が貞実でないという人は邪淫の報い、

 身に誹謗を受け人に誑惑されるのは妄語の報い、

 親類に離れ親友にも捨てられるのは両舌の報い、

 悪声を聞き訴訟をおこすのは悪口の報い、

 人に信じられないで言語が明らかでないのは綺語の報い、

 多欲で足ることを知らずに金が欲しい物が欲しいというのは貪の報い、

 人のためにすきをうかがわれ、あるいは殺されたりするのは瞋りの報い、

 邪見の家に生まれて心諂曲なのは愚癡の報いであります。


 また、日蓮大聖人様のおことばによりますれば、「我人を軽しめば還て我身人に軽易せられん形状端厳をそしれば醜陋の報いを得人の衣服飲食をうばへば必ず餓鬼となる持戒尊貴を笑へば貧賤の家に生ず正法の家をそしれば邪見の家に生ず善戒を笑へば国土の民となり王難に遇ふ」(佐渡御書 御書全集九六〇㌻)と。
 

 これ般泥洹経にありとは、大聖人様のお教えでありますが、この業報にわが身を照らして過去世をみ、ここに運命の打開を心がくべきであります。


 されば、自分は丈夫であるとしても、自分の身内に弱いものがいて、多病の業報を感ずるならば、親子ともどもに殺の報いとせねばならない。このように考えることは、生命は永久であり、永遠の存在であり、この常住の生命が、娑婆世界に、生死、生死と存在することを大前提とせぬかぎり、信ずることのできないことである。


 日蓮大聖人様は、このような因果の理法は、「是は常の因果の定れる法なり(同㌻)とおおせになって、当然のこととせられております。しかし、破仏法、破国の邪法のみ盛んな今日、この理法を信ずることすら、日本民族には困難な実状にあります。しかし、釈迦の仏法哲学から、この考え、この思惟を抜きとったら、何物も存在しなくなるのであります。われら、この仏法を信ずるものは、この因果の法を信じなくてはならないのであります。低いこの因果の理法すら信じられないで、久遠の生命をどうして信じえられましょう。また、地涌の菩薩の自覚は、どうして生まれてまいりましょう。


 さりながら、この低い仏法の因果の説法だけをもって仏法とするならば、運命は定まれるものとなして、ただ人生を悪いことをしないようにと、消極的生活におちてしまう。前に述べました因果は、尽未来際にわたって、一生に一つずつを現じて、永劫の生活に現れるのでありまして、いつの日にかこれを清めて、すっぱりした生活に、雄々しく偉大な希望をもって生きられましょう。


 これが解決のため、釈迦の説かれた経文は法華経でありまして、法華経こそ人生の最高の生活理念であり、この自然存在の因果の理法をたたき破って、本因本果の妙理を現したもので、経文中の最高唯一のものであります。しかし、これとて、たんなる理念にすぎないのでありまして、仏のみがこの因果をたたき破って、神通の力を現じたものにすぎません。


 末法のわれらと縁のないもので、われわれ凡夫自身が、近因近果の理法をたたき破って、自然の仏身を開覚する法が、ただいまでは必要でありますが、この必要に応じられて、実際生活に、過去世からの運命をたたき破り、よき運命への展開の法をたてられたのは、日蓮大聖人様でいらせられる。

 

 すなわち、設計図によって飛行機を作ったとおなじように、釈迦の法華経にこたえて、実際生活のなかに、過去の因果を凡夫自身が破って、久遠の昔に立ち返る法を確立せられたのは、日蓮大聖人様でいらせられる。


 すなわち、帰依して南無妙法蓮華経と唱えたてまつることが、よりよき運命への転換の方法であります。この方法によって、途中の因果がみな消えさって、久遠の凡夫が出現するのであります。

 

「久遠とははたらかさず・つくろわず・もとの儘と云う義なり」(御書全集七五九㌻)とおおせのとおり、久遠の仏とは、えらい難しいことばに聞こえますが、久遠は「もとのままの、なにもりっぱでもない。なんの作用もない」ということで、仏とは命でありますから、「もとのままの命」と悟りますときに、途中の因果がいっさい消えさりまして、因果倶時の蓮華仏が生出するのであります。


 「善に付け悪につけ法華経をすつるは地獄の業なるべし」(御書全集二三二㌻)と大聖人様は御おおせである。たとい久遠劫以来、邪宗にひかされ、かもしだした謗法の大罪、およびつれて生じた因果の罪にいかにせめられましょうとも、久遠の昔の清浄にかえる唯一の道である大御本尊様を捨てまいらせるということは、地獄の業であります。


 久遠劫以来、種々の悪事のなかでも、謗法の罪はもっとも重く、これがために、十不善業や般泥洹経の八種の大難を強く感ずるのでありますから、ことに強盛に信仰するときには、来世に永劫の時間を費やして一つずつ消してゆくこの大難を、この世の一生のうちに軽く受けて、生命を清浄にしなくてはなりません。そのためには、過去世の業をつぎつぎと感ずるのでありますから、いかなる難がありましょうとも、けっして、けっして、信仰の道に悩んではなりません。いっさいが御本尊様の御おおせと、喜び勇んで難におもむかなくてはなりません。


 御本尊様の功徳については、御年四十三歳の御時、御本尊様御出現の前に、その功徳の一部を、釈迦の功徳によせて、法華経よりこれをさぐって御おおせには、
 「①世間の楽・涅槃の楽を得、②貧窮の衆生に福力を与える、③病の衆生に良薬を与える、④智なき衆生を智者となす、⑤短命の者を長命となす、⑥悪心の者を善心となす」と。


 御本尊様をいただくかぎり、途中の因果を感ずるときは、この難は久遠を開覚する途中ぞと心得て、いま申した六つの功徳力を固く信じて、絶え間なきご信心を祈るしだいであります。
                  (昭和二十二年十月十九日 東京・神田の教育会館)