創価学会第一回総会(昭和二十一年十一月十七日 東京・神田の教育会館)


罰と利益


 罰とか利益とかいうと、神様や仏様の独占のように思う。ことに現今、世間の仏様や神様は、ご利益の競争をやっている。

「成田さんにご利益がある。お稲荷さんにご利益がある。仏立講にご利益がある」と。人々はみな、このご利益に迷う。


 この罰とご利益は、はたして神様や仏様の独占物か。

 

 そもそも人間は、罰とご利益のなかに生活しているのである。それは信仰のあるなしにかかわらないのだ。ただ、利益と罰の大小・深浅・染浄によるだけである。


 漁師が魚を釣りに出かける。魚が釣れれば利益で、釣れなかったり、舟をいためたりすれば、これは商売上の罰だ。おでんやをやる。お客がきてもうかれば、商売の利益だ。客がきて暴れたり、客がこなくて経費がかさめば、商売上の罰だ。お稲荷さんには、お稲荷さんなりの罰と利益がある。成田さんには、成田さんらしい罰と利益がある。漁師には漁師なりの罰と利益。おでんやはおでんやを生活とした罰と利益がある。


 注意すべきは、一億円を投じてやる商売の利益と罰は、五百円を資本として商売をする利益や罰より大である。一億円の商売のそばで、同じ事業を五百円でやる商人は、つぶれざるをえない。


 妙法蓮華経とは、宇宙一切の森羅万象を包含する一大活動であり、人生の最高法則である。


 この生活のなかにおこる罰と利益は、小神や邪神、邪仏を生活内容としておこる利益、罰とは、はなはだおもむきを異にする。妙法蓮華経の信仰生活には、いうにいわれぬ、すごい偉大な利益がある。思いもよらぬ幸福がおこる。不信の徒には、またまた身の毛のよだつ罰があるべきである。このことは、法華経二十八品のなかに詳細に述べられ、日蓮大聖人様の御書には枚挙にいとまなきほどの数多きご教訓がある。


 われらが恩師牧口先生は、法のため、人のため、世のために、法難にあわれ、三世の諸仏の称嘆したもうところである。いま、この人を悪口するものは、妙法に悪口するもので、その大罰は恐るべく、その人やあわれむべきである。


 わが学会を悪口するものは、妙法使徒の集団を悪口するもので、現罰なくしてなんとしよう。人々よ、よくこれらの人々の今後の生活を見たまえ。また、妙法を純真に信仰するものの受ける、不可思議の一大功徳も、また刮目してみな見るべきである。
 われわれは、かく宣言するものである。
                  (昭和二十一年十一月十七日 東京・神田の教育会館)