創価教育学会総会 (昭和十六年十一月二日 東京・神田の教育会館)


弟子の道

 

 日興上人は、日蓮大聖人様をしのごうなどとのお考えは、毫もあらせられぬ。
 われわれも、ただ牧口先生の教えをすなおに守り、すなおに実行し、われわれの生活のなかに顕現しなければならない。
 

 牧口先生は金もうけはされない。しかし、われわれは先生の教えによって金もうけをし、また、ある人は技術を磨かなければならない。


 先生を親と思うのは、間違いをおこす。先生は師匠であり、われわれは弟子である。


 牧口先生のお宅でも、お子様は、師匠と弟子とを混同されている。わたくしの宅でもそうである。
 先生のお子様は、先生を親と思っている。師匠と思っていない。先生が御法のことを申されるときは、峻厳である。それが師匠である。もちろん、親としての心もある。しかし、師匠の分野としてみるべきときが多い。


 先生は「折伏しろ」といわれる。しかし、先生のことばづかいだけをまねて、なにになる。
 黄金水を流してしまうようなものである。ある人は、主人であることが認識できないため、失敗している。主人は主人の道を実行しなければならぬ。また、弟子は弟子の道を守らねばならぬ。ことばも、実行も、先生の教えを、身に顕現しなければならない。
                (昭和十六年十一月二日 東京・神田の教育会館)

 

※私見

 これは、秋谷会長等の方々が、この出版をされるに至って、池田大作先生への批判であろうと受け止めました。(昭和四十年十月三十日発行の戸田城聖全集第二巻(講演集)にもありますが)

 

やはり、池田大作先生は、戸田城聖先生の弟子といいながら、『弟子は弟子の道を守らねばならぬ。ことばも、実行も、先生の教えを、身に顕現しなければならない。』と指摘されているように、日蓮大聖人の仏法の道から、外れていたと当時の私は思っていた。(日顕法主が大白蓮華で御書講義文が載ったけど、こんなの難しくて誰も分かるもんか(こんな表現だったかな?)、と池田大作先生が新聞かなにかで話されていた。えっ!・・・ と(難しければ分かるように説明してほしい)その時に思ったことを覚えている、この時からだったろう、池田大作先生は御書をあまり理解されていないのではと感じていた。)

 

 今の学生部の人達は、池田大作先生の御著作よりは、戸田城聖先生の著作を読んでその真意を理解して欲しいと思います。

多分、(在日)朝鮮人や中国人はこの「空」とかの概念が理解できないのではないかと思う。この人達が学会の幹部になっていったら今の創価学会(現実の生活が伴わない、言葉だけで幸せにするような)のようになってしまうのではないか?

権力をとることや金を増やすことばかりになるのでは?