⑤観音信仰


 地蔵と並んで全国いたる所に民間信仰としてあるのが観音である。有名なものには浅草の観音、清水寺観音を始めとする西国三十三所、坂東三十三所、秩父三十三所の巡礼などで知られており、その種類も聖観音、十一面観音、千手観音、馬頭観音、准胝(じゅんてい)観音・如意輪観音などがある。
 

 この観音信仰は日本では仏教渡来とほとんど同時で、聖徳太子の法隆寺夢殿観音、聖武帝の百七十七体像など早くから弘まった。その特色は何といっても、あのやさしい慈悲をたたえた、なんとなく救ってもらえそうな有難味を感じさせる画像・木像である。観音の像は信仰というよりも一種の芸術的な発展をとげてその色相を飾った。しかしいかに有難そうに創られても、木絵になった観音には人を救う神秘の力はない。


 大聖人が観心本尊抄(御書二四六頁)に「詮ずる所は一念三千の仏種に非ずんば有情の成仏、木画二像の本尊は有名無実なり」と仰せの通り、いくら拝んでも幸福にはなれないのである。


 それでは経文ではどうなっているだろうか。まず阿弥陀仏の脇士として観音・勢至がある。また、真言宗でも両界曼陀羅の中に入れている。これら法華以前の諸経はいずれも方便のためであり、権教だから、用いるわけには行かない。
 俗に観音経と呼ばれて尊ばれているのは、「妙法蓮華経観世音菩薩普門品第二十五」で、ここでは衆生が諸々の苦悩を受けている時に、観世音菩薩の名をとなえれば、即座にその音声を観じて、みなその苦悩から解脱することができると説かれている。
 それも観世音普門品の利益は寿量品の自我偈の残りかすであるといわれ寿量品の方がはるかにすぐれている。しかもこれはあくまで法華経文上で、末法の我々には何の利益もないのである。
 観音は迹化の菩薩であり、今末法は本化地湧の菩薩の働くべき時である。

 御義口伝(御書七七六頁)に、「今末法に入って日蓮等の類い南無妙法蓮華経と唱え奉る事は観音の利益より天地雲泥せり」との仰せの通り、今ごろ観音を拝んでも何の利益もない上、観音に執着して正法を誹謗すれば、かえって不幸を招くのである。