(九)、メシヤ教


 病気は霊の曇り、従ってその曇りに教主の霊波を放射すると、たちどころになおり、海へ発すれば大漁となる、農作物にも肥料はいらぬ ー と宣伝し、光に「ゝ」をつけたお守り札を売って、箱根熱海に宮殿を建てた岡田茂吉の世界救世教は、世におヒカリ様の名で知られている。


 この救世教は、もと大本教から異端視あつかいされて脱退した岡田が、昭和二十二年に指圧療法に観音を結びつけて、日本観音教団として設立したものである。のちに世界救世教と名のりかえた。


 岡田の腹には直径二寸の光の玉が入っていて、観音同様に霊力があると、もっぱら霊気療法で売り出し、観音を釈迦の師匠にたてたり、ミロクの世の中を作るとうそぶいたり、何者様などと呼ぶ神をたてるかと思うと、「光明如来」と書いた掛軸をまつったりする。まったくメチャクチャなやり方で信者を集めた。

 最近の教義は、教祖岡田の死後、新たに編さんされたものらしく、岡田の威力もだんだん無視されつつある傾向である。そのほとんどが、相変らずの低級道徳の寄せ集めで、悪いことを絶対しないという勇気の持ち主が立派な神格者だとか、日常は借金の苦しみと怒りを我慢せよとか、人間は想念次第、人を裁くなかれといったようなもので、我と執着をなくすことが、信仰の主要目的だという。


 それに救世教では、浄霊ということを、もっとも重要視する。人間の運命は霊界にあり、その霊界は上中下段、合計百八十一階級に分
れている。霊身が下段にあるうちは、人は何をやっても幸せにはなれず、神を信じ神意を実行し、霊を浄めて霊界の地位を向上させよというのである。貧乏も病気も争いも、すベて霊の浄化現象とみているのである。


 およそ常識で考えても、霊界などという存在はない。また、霊力などというものは、一種の畜生の生命の発現であって、「利根と通力にはよるべからず」との大聖人様の御金言からも、邪道であることは、はっきりしている。それに何よりも、宗教の根本である本尊が、救世教には決まってないのである。
 しかも仏教から観音や、ミロクの名を盗んでいるあたり、師敵対も甚しいといえよう。
 

 実体が以上のようなわけであるから、救世教は今もなお衰微の一途をたどっており、一方、ここに引きずりこまれた多くの人々は、強信のすえに頭破作七分となりはてている現状である。