(二)、キリスト教
一、救われない宗教
あるクリスチャンが苦しい病床でつづった手紙の中に「幸福なるかな苦しむ者、その人はキリストに十字架の愛を深く知らさるればなり」という一句がある。この女性は、キリストが人間のために十字架の死の苦しみをしたのだから、自分もどんな苦しみにも黙ってたえて服従していこう、これが救いだというのである。
しかし、考えるとこれはずいぶん無茶な話で、現実の苦しみは少しも減っていない。従ってキリスト教ではよく信仰が深まれば死に直面しても驚かないとか、不安にたえうるとかいっているが、それはすべてあきらめの結果である。逆に消極的な二重人格者ができ上るといわれるのも、もっともな話であろう。
このように、キリスト教には現実の生活を変える力がない。生活の苦悩を云いわけする論理を組み上げてあるだけである。現世の宿命すら転換することができないのだから、まして、天国などという楽世の保証など、及びもつかぬ旨である。それも神を信じた者だけ救われて、信じない者、信じられない者は、永遠に罪の子として終るというのだから、反対する者も罰の現証によって必らず最後は救うという仏法の力とは、天地の開きがある。
二、教義の一例
そこでキリス卜教の説くところを、仏法と二、三くらベてみよう。
まずキリスト教は、唯一絶対神がすベてを造ったと説く。そして神とは、全智全能、完全であり、愛であり、善であり等々といっているが、大体その神の実体、存在の因果などは全く明されてない。もし本当に完全な神が、人間を造ったとすると、生まれながらの不平等や、一生不幸の宿命に泣く人々の存在など一体どう説明しようとするのであろうか。
三世にわたって生命の因果を説き明した仏法と比ベて、キリスト教の宇宙観は、実に低劣なのである。
キリスト教は罪を重大視する。人間の不幸の原因は原罪(アダムとイブが堕落した罪)によるとして、人はみな生まれながらに罪人だと決定し、それに世間法も国法もみな罪のはん囲に入れて、それを消すために告白という形のざんげをさせる。
しかし、すべての罪・不幸は、妙法蓮華経の宇宙の法則に反した、即ち謗法を因として起っているものである。自らが造ってきたものである以上、必らず自分で受けて消して行かなければならないのが、公平な因果の法則で、単なる告白や、他人を愛したり許したりする事で罪が消える道理はなりたたない。ただ正法を信じた功徳だけが、その罪を軽くすることができるのである。
愛という問題についてはどうであろう。キリスト自身が聖書の「山上の垂訓」の中でのべているが、自分を愛する者を愛して何にななろう、天の父のように完全愛を持てというのである。これもはなはだ無理な注文で、人間には愛するという心と同時に、憎むという心の働きも傭わっている。キリスト教ではそれをおさえて、努力して愛せよというのである。仏法では慈悲を強調して、他を救おうという行動の中から、自然にわき上ってくる本然の心の状態を慈悲として説くのであって、これとくらベてキリスト教の愛は、まったく偽善的であり弱々しい。
証拠は「汝の敵を愛せよ」と叫ぶキリスト教徒自身、たえず争いをくり返してきたし、キリストの贖罪愛で一切の罪は消えた
はずなのに、地上の悪事は増えこそすれ一向に減らないで複雑多元化してゆく現実である。
三、生命に関して
さらに、宗教の究極である生命に関して、キリスト教では、まったくお話にならない教義をたてている。まず紀元前四年に誕生したキリストの母は処女マリヤ、父は神であったという。そして三十才ではりつけになったキリストは、三日目に復活し、一ヵ月後には昇天している。単なる科学の常識から考えても誠にバカらしい話であるが、キリスト教では、これをそのまま信じている人もあれば、宗教上の一表現として、合理化した解釈を立てたりしている。しかし、どんな理屈をつけようと、宗教の教義は万人の納得する普編妥当性の原理でなくてはならない。
仏法は生命とは何か、死後にどうなるか、現在の幸、不幸は何によって決まったのか、こうしたあらゆる生命の状態を、因果の上から説き明し、その上で現在の宿命を打開し未来の宿命を開いて行こうとするものである。どちらが正しく、どちらが科学的であろうか。ましてキリスト教の天国など、仏教にあてはめると方便権教の念仏でいう西方浄土の架空のたとえ話にすぎない。死んでから行く天国など、まったくのつくり話である。
四、現 状
本来キリスト教はユダヤ教から出たものであるが、現状は力トリツク(旧教)とプロテスタント(新教)が大きく対立している。新教徒は、十六世紀の始めごろ、腐敗堕落した教会の粛正を唱えたマルチンルツターの宗教改革で破門された一派であるが、その新旧教会内もまたバラバラで、事実四十に近い派が争っているといわれている。
しかし、結局こうしてキリスト教が、神とか愛とか善とか罪とかいって、ちょうど何ものかの幻影を追うかのように、いたずらに求めつづけているものの本体は、実はそれこそ南無妙法蓮華経の御本尊それ自体であり、日蓮正宗の説く生命に外ならない。大聖人が七百年前にこれを濁世の世に残されたにもかかわらず、その根本を知らず、ますます実生活とかけ離れた観念の邪義をかまえ、法の無力をカバーするために盛んに社会事業を行って民衆を迷わせているのが現在のキリスト教だ。
五、いくつかの疑問
最後に次のような矛盾をキリスト教ではどう考えているのであろう。
一、信ずる者しか救われないというのに、迷える者を救う義務があるといっている矛盾。
一、敵を愛せよというキリスト教が、教会に対立したガリレオ等多くの科学者を迫害してきた事実。
一、日本のキリスト教の町、長崎に、真先に原爆が投下された事。
一、大聖人は竜の口で命に及ぶ難に勝たれたが、キリストの死は悲惨極まる横死であった。
一、キリストの予言は一つとして実現してない。
一、世界教会運動が提唱されているほどの内部不統一は、教義が無力だからではないか。
一、清貧、精神愛を説きながら、ローマ法王庁が示して来たぼう大な権力、圧政の歴史。
一、キリスト教各派中どれが正統正義のキリスト教か? 他派は皆邪義をかまえキリストに背く罪深き人になる道理だが……。