三、主な邪宗の批判
(一)、神道
一、神様に対する素朴な疑問
「神様なんていうものは、わけのわからぬ、恐れ多くもありがたき方だ。だまって拝めばそれでよい」などというのをやめて、日本の神様をよくみてみると、全くおかしなことばかりである。
まず、お賽銭。神社にお賽銭箱はつきものであるが、神様にお金がいるわけはない。事実上、お賽銭なるものは、神主一家の生活費になるわけだろうが、一体、お賽銭を神様に上げる理由はまったく聞いたことがない。世間普通の場合、金銭を支払えばその代償として品物が得られたり、便利が得られたりするものである。しかし、神社はお賽銭を取上げるだけで、われわれの生活に何を与えただろうか。何も与えはしないとするなら、スリやサギ漢と何ら変らないではないか。
次に神札。火災・盗難除け、病気平癒、家内安全、商売繁昌、と、効能書きはさまざまだが、本当に力があるのだろうか?
大体、神札は神主一家または下請工場の家内工業の産物である。神主が紙に版を押し、妻がのりづけし、子供が折るというようなわけだ。こんなことで病気や災難がなくなるなら、世の中に苦労はない。
それに神札は半年なり、一年なりで、必ず焼きすてて取りかえるしきたりである。本当に神札が尊く力あるものなら、これくらいおかしいことはない。
卒業証書のような紙片でさえ.一生大事にするものなのに、神札は一年でやきすてるとは全くうなづけない。要するに、神主が収入をますための営業政策にすぎないのではあるまいか。まったくその紙切れを有難がっていただいてくるとは、ずいぶん珍妙な風習ではないか。
次に、世間では、人に物を頼む時には必らず相手が何者かを見きわめて物を頼むのが普通である。病気なら医者へ頼む、魚がほしい時は魚屋にたのむ、これが当然である。それなのに、神様の場合だけ、神様が何者とも知れないのに、人々はそこへ押寄せて「病気を直してくれ」とか「金をもうけさせてくれ」とか勝手な祈願をしている。誠にただごとではない。魚屋に行って病
気を直してくれとたのむ人と同じではないか。