五、三法律というのは何か

 世の中に世間法律、国法律、仏法律の三つの法律がある
 この世間法と国法と仏法とを網にたとえれば、世間法律は大きな目の網で、国法律は中くらいの目の網、仏法律はごく細かい網の目で絶対にこの法律をのがれることはできない。
 

 世間にいかに評判がよく物質的にゆたかであっても、国の法律にはかなわない。国法は世間法よりきびしいのである。又いかに国法に準じ世間に評判よく物質的に豊かでも、仏法にそむけば仏法律は絶対にきびしいのであるから、仏罰は当然である。いかに世間に評判悪く貧乏で万が一、国法にそむくようなことがあっても、仏法律にたがわなければ、冥々の加護あって、世間的にもよくなり国法の支配をのりこえた幸福になるのである。

 たとえば支那事変中、三勇士とたたえられた人々は故郷にいた時も又隊中でも評判がよくなかったと聞く。しかるに一度国のために身を犠牲にするや、彼らは一躍、日本の国法に照らして三勇士として一般民衆より称えられたのである。これは世間法より国法が強く高い証拠である。
 芦田均氏は一国の総理大臣として評判の高かった人であるが、一度昭電事件に連坐するや国法の裁きをうけなくてはならなくなった。世間法では国法に勝つわけにはゆかぬのである。世間法は世間の交際がよいとか、お世辞がよいとか、商売がうまいとか、財産があるとかによって、この法の利益をけるのである。
 

 国決は正邪である。国の法律に照らして正であるか邪であるかの判定をなすのであって、国民全体生活の秩序を乱さぬ最低範囲において基準がおかれている。この基準によって正邪を定めるのである。


 仏法律は国法をもって、いかんともすることのできない峻厳かつ崇高な法律である。
 日蓮大聖人は仏法律にすこぶる忠順であらせられた。一切民衆に真実の楽土を建設させんために、命もすて苦しみをしのび、悪口にたえて御奮闘を遊ばされた。もったいない限りである。世間法から見て決して評判はよくなかった。国法に照らしても罪人として伊豆へ佐渡へと御流罪である。国法から見て世間法から見てほめられる御境涯ではない。しかるに大聖人は仏果を成ぜられ、末法の御本仏として仏国土に君臨遊ばされて東洋の仏法をここに御建立なされたのである。

 

 誰人か大聖人の御心境を奪えるものぞ。いかなる国法も大聖人の仏果をさまたげうるものぞ。
                   
 大聖人が開目抄(御書二三七頁)に、「日蓮が流罪は今生の小苦なれば・なげかしからず後生に大楽をうくべければ大に悦ばし」と、されば仏法律は国法律をもって、いかんともなしがたいものである。


 国法律は正邪をもって判じ仏法律は勝負である。仏法を信ずる者はその生活において勝負を決するのである。末法今時において、日蓮正宗を信じひたすら題目を唱えるとき、仏法律によって冥々の加護をうけ、誰人も奪いえない真の幸福をうるのである。


 ここに考えなければならないのは、最高の仏法律に従うといえども、世間法・国法が仏法律の一部分であることを忘れてはならないことである。


 一切法これ仏法である。特に世間法にそむき、国法に背くことがあってはならない。ただ仏法を護らんためには、世間法にも背かねばならないこともあるのである。