四、折伏をしなければならないのは

(一)仏の本眷属たる自覚

 我々日蓮正宗の信者は一度南無妙法蓮華経と御本尊に向って唱えると、自覚するとしないとにかかわらずその悩みある生命、生活そのままが御本仏の眷属として即身成仏の境涯をうることができる。であるから仏を信ずることによって、日常生活の上に甚深の功徳・御利益をうけ、幸福生活へと向上して行くことは当然のことであり、仏の御使いとしての果報である。故に真の幸
を得ようとするならば、我自から仏の御使なりと信じ、日夜仏の行化を助けることを誓い、身にも行わねばならない。

 ただ我が身の利益のみを願わず、仏が一切衆生にたくましい生命力を開かせて幸福生活に導かれんとした御心を心として、その方法を知らず悩む人々を正しい教えに導かねばならないのである。しかもその教はいかなる点からしても、末法の御本仏たる日蓮大聖人の御言葉のごとく、御本尊を受持し題目を唱える以外には絶対ないのである。故に大聖人の真の弟子であるならば、大聖人の御心を心として、ひたすらに折伏の道を行じなければならない。それでこそ仏の加護があり、大功徳をおうけできるのである。

 

 我々が朝夕唱える、「毎自作是念・以何令衆生・得入無上道・速成就仏身」の文の意は、自分をも含めた一切の人々を救わんとの折伏の念願であり、すでに仏勅をこうむって末法に出現した自分であることを自覚すベきである。

(二)世の実相を見るならば

 次に現在の世の姿はどうであろうか。七百年以前、大聖人御予言のごとく、人々は日増しの経済難に悩み、生死に迷う世の姿は日夜の新聞を賑わし、いつ何事の起るかも知れぬ不安にみちている。一人日本のみでなく、朝鮮や支那のあの動乱の中にうごめく、人々…これ経文のごとく謗法の姿でなくて何であろう。しかもこれに便乗して邪宗はますます盛んになっている状態である。


 大聖人は治病大小権実違目(御書九九六頁)に「今末法に入って本門(御本尊様)のひろまらせ給うベきには小乗・権大乗・迹門の人人設い科なくとも彼れ彼れの法にては験有るべからず」と。又「返って自の依経をもって治すれどもいよいよ倍増す」と仰せられ、不幸の根本はあらゆる邪宗にあり、日蓮をあだんで用いないための三災七難であると断言しているのである。
 

 さらに立正安国論の御金言は、正に符節を合わせたごとくである。真に平和日本の復興を願い東洋の楽土建設を望むならば、一日一刻も早く正しく妙法を持たせるべく、命も惜しまず折伏に精進しなくてはならないのである。

(三)運命の転換

 我々が折伏するとき、強ければ強いほど、反対もはげしく悪口をいわれるが、その悪口は感謝しなくてはならないのである。その理由は転重軽受法門(御書一〇〇〇頁)

「先業の重き今生につきずして未来に地獄の苦を受くべきが今生にかかる重苦に値い候へば地獄の苦みぱっときへて死に候へば人天・三乗・一乗の益をうる事の候」と仰せのように、我々が今世にいろいろの悩み苦しみをするのは、過去世における誹謗正法の罪をうけているためであり、少しづつ消して行かねばならない罪を、人を折伏するために悪口をいわれることによって、深い罪業を消し生命が浄化され、幸福生活へと驀進することができるのである。
 かの不軽菩薩が悪口をいわれ、杖木の難にあったのも、又罪おわって仏身を現じたのも、この因果の法則の故である。過去世よりの重罪を今世に軽く愛けるのは、護法の功徳力によるためである。同じく御本尊をおうけしていても、折伏をしないものは、永遠の生命をつかみ崩されない幸福に立つような大功徳はうけられない。それのみか未来世においても、同じ苦しみを受け
ねばならないのである。
曾谷殿御返事(御書一〇五六頁)にも「法華経の敵を見ながら置いてせめずんば師檀ともに無間地獄は疑いなかるベし」と仰せられている。折伏して大難を受けるほど早く、罪障が消えて大功徳が現われるのである。真の幸せをうることは、過去遠々劫よりの罪を消す以外にないのである。


 折伏することは人を救うのみでなく、自己をして仏の確信に立たせ後生の大楽を得ることであり、絶対やりきる以外にないのである。