三、謗法ということ
多くの人は謗法という言葉も意義も、日蓮正宗に入って始めて知る状態であるが、これはきわめて当然なことであり又知らなければならないもっとも重大な問題である。
すなわち謗法すれば堕地獄とて現世も来世も大苦悩の生活に入る。そこで謗法ということを明らかにしなければならない。
謗法とは「正法を誹謗すること」であり、従って何が正法であるかが問題だ。それはいうまでもなく末法今時の正法は、道理文証いずれから論じても日蓮大聖人の御教えであり、その教えは富士大石寺に伝わる三大秘法の大御本尊以外に、あるはずはない。
しかれば謗法とは、その大御本尊を中心にして起るものであることはいうまでもない。
おかしな例は大御本尊に何の縁もゆかりもない邪宗が、「謗法」という言葉を使っていることであり、まったく有名無実である。そこで大御本尊を誹謗する姿とはいかなるものか。
一、日蓮大聖人の真実の教えも知らず又求めようともしない人々の我見による、いわゆる邪法悪教は、もちろんそれを貴びそれに随順する信者檀徒は知ろうが知るまいが謗法の罰は免れない。
このことを立正安国論(御書三二頁)には「悲いかな皆正法の門を出でて深く邪法の獄に入る、愚かなるかな各悪教の綱に懸って鎮に謗教の網に纏る」と
二、又大聖人は多くの御書や御消息に法華経譬喩品にある経文を御引き遊ばされている。即ち「若し人信ぜずして此の経を毀謗せば即ち一切世間の仏種を断ぜん、或は復顰蹙して疑惑を懐かん乃至若しは仏の在世若しは滅度の後に其れ是の如き経典を誹謗することあらん経を読誦し書持することあらん者を見て軽賎憎嫉して結恨を懐かん乃至其の人命終して阿鼻獄に入らん」と。
この文は大御本尊を信じ奉らず反ってそしったりけなしたりすることの重罪なるを説かれ、更に話を聞いて迷惑がったり疑ったりすること又しかり。そして又信心修行する人を賎しみ憎み恨むことも謗法なることを明されている。
三、又この御本尊を信じ奉る大聖人の弟子檀那の中にも謗法の者なしとはいえない。それは松野殿への御返事(御書一三八二頁)の中に十四の謗法をあげて「一憍慢、二懈怠、三計我、四浅識、五著欲、六不解、七不信、八顰蹙、
九疑惑、十誹謗、十一軽善、十二憎善、十三嫉善、十四恨善」とこれらを戒められている。
以上、謗法の姿のみ列拳したが、要は御本仏日蓮大聖人の教えを疑い、大御本尊を疑うことが謗法であって、「不信」が謗法の根本となるのである。