十二、罰が出たらやる
折伏を受けて罰が出たら信心するということは、罰の何たるかを知らぬ者の盲蛇に怖じずの言楽である。およそ人間の生活は得と損との連続であり、損得を離れた生活は絶対にありえない。
金もうけにほんそうする等、世間の浅いことには命がけでも利益追求のために努力を惜しまぬ人々が、真に大利益を与えるところの仏法に対しては、罰が出たらやるというのは日常生活と遊離した言葉である。
大聖人が佐渡御書(御書九五六頁)に仰せの「世間の浅き事には身命を失へども大事の仏法なんどには捨る事難し」とは、このような愚かな人々をいましめる言楽である。
次に罰が出たらやるというのは、罰の恐ろしさを認識せぬ故の言葉である。
罰には総罰・別罰・冥罰・現罰の四種あり、正しい仏法にそむくことにより一国謗法が深まれば、総罰として地震・過時風雨・他国侵逼等の大難あり、この果報は当然うけなければならず、個人にふりかかってくる金銭上の損害・病気・ケガ・一家不和等は、個人個人にくる別罰であり、別罰も謗法の強い人間は死ぬ場合すらあるのである。そして別罰も現世にこうむる現罰も大きいものであるが、冥罰といって気づかないで大変な損をする罰もある。その上にも大きな罰は死後の苦しみで、現世の苦しみに幾層倍する大きなものである。
罰が出てからやるという人は、厳然たる罰の恐ろしさを、よく知らぬ人々のいうことであって、罰が出た苦しみは一時的なものもあるけれども、ケガなどして一生の苦しみのつきまとう不具者になる場合もめずらしくなく、後悔先に立たずの諺通り、出てしまってからではおそい。感情を先に立てて暴言を吐く前に、自分の能力の限度を考えて、すなおに大善生活に入り、御仏の大慈大悲に従うべきである。
罰とは何も仏がその人を憎んで当てるのではなく、交通法たる赤青の信号を無視すれば大ケガをするごとく、生活の法則たる正しい仏法に反対すれば自分から不幸になることをいう。
個人は社会の中に生活する以上、社会全体に対して責任をもつものであり、社会悪化の根本原因が邪宗教の害毒から来ることを考える時に、社会濁悪化の根本原因たる邪宗教ボク滅のために尽力するのは、真にめざめた人々の義務でもある。
単に目前の小さな損得にこだわって、社会全体に対する責任を感じない人は、いつまでたっても真の幸福生活に入りえないのである。せまい個人主義的な我慢根性をすてて、自らも大利益をうけ、人をも救ってやろうという大きな心持にならなければ、毎日毎日の生活が苦しみと悩みの連続で終り、臨終に後悔しても取り返しのつかぬことになる。
つまりは罰が出たらやるなどというのは、あまりにも低級な人格をさらけ出す言葉である。一度でも正法に結縁した以上、必ず信心しなければならぬようになっているのである。利益と罰と両方はっきりしている以上、すなおに入信するのが正しい人間の態度である。