十、納得できるまで聞きたい

 日蓮正宗の話を聞かされて、納得できるまで聞きたいという人に二種類ある。
一には大体ひかれるものを感じている人である。この人は宗教というものは聞けば内容がよくわかるものだと思っている。しかし仏法は学問ではない。
 仏法は信心と、信心を実行して行く行力とが合して、仏力・法力とに顕われてくるのである。
 信仰の目的は仏力・法力を得ることであり、これによって絶対くずれることのない確信と幸福とを得るのが、信心の目的なのである。
 故に仏法は信じて行ずることによってのみ、目的が達せられるものである。
 これを仏法の法則に照らしてみると、まず最初に仏の教えというものがあり、この教を実行する、すなわち行ずることによって証拠をつかむことができるのである。すなわち教行証の三段階で目的が達成せられる。わかりやすくいえば実験証明をすることによってのみ仏法は納得できるものである。仏法が納得できるためにはこの教行証の段階をへなければ絶対不可能なのである。
 そしてこの教行証を開いて行くと、教とは大御本尊をひたすらに純心に信じ奉ることであり、行が開かれて行と学とにわかれている。大聖人が「行学絶えなば仏法はあるべからず」と仰せられている通り、行の中に行学は大切なものであるが、学は納得できるための一部分の仕事にすぎないから、納得できるまで聞きたいといって、いくら理論を聞いても納得できないのである。
 

 この信行学の三つがそろってこそ、完全に働くのであるから、学ばかりに、はしって信と行を捨てる形は、部分と全体を取り違えたあやまちがある。だからこの誤ちが結果にも誤ちとして現われ、せっかく聞いた話も誤解に終ることになるのである。よって納得できるまで聞きたいという態度はまちがいであって、自分のもってきた信仰主義がどのように生活を左右してきたかという点、つまり現象によって判断するのが一番良いわけで、日蓮正宗も利益と罰の体験談から判断するのが一番安全で一番の近道である。


 次には、信心には反対だけれども聞くだけ聞いてやれという、批判的態度のはっきりした人である。この人は自分の今まで持ってきた宗教・主義と、日蓮正宗とを自己流に解釈して行く人である。この人は自分の先入観、今までつんできた学問で仏法を判断しようとする人である。すでに仏法に対して疑いの目をもってかかるのであるから、理解などできるわけがない。仏法の正邪を判断するには、三つの証拠をもって論じなければ、必らずあやまるのである。

 

 すなわち文証・理証・現証の三つである。
 

 まず文証とは文献上の証拠のことである。日蓮正宗であれば日蓮大聖人の御教え通りであるかどうかを見るわけである。あとは附帯的に釈尊の法華経を文証として判断するのである。これならば主観を離れて冷静な客観的判断ができるわけである。
 次に理証であるが、文証に合致したならば、なぜ文証と合っているのか、なぜそうなるのかという現論的裏づけがなければダメである。すなわち仏教哲学をもってきちんと説明できているからこそ、日蓮正宗は正しいといえるわけである。この理証は大聖人が御書の中でのベられているものである。
 最後に現証といって、実験証明した結果、文証・理証の通りの結果、現実の証拠がなければ正しいものとはいえない。
 

 この三つが完全にそろったならば、正しいものと判断せざるをえないのである。この内一つでも欠けているならば、それはまちがったもの、邪宗であるとの判断が下されなければならないのである。よって主観で自己流に解釈しないで、客観的に文証、理証、現象をそろえて出されたなら、すなおに従うのが人間として正しい態度である。
 

 くり返していえば、反対だけれども、できるだけ多く聞いてやれという態度でかかれば、必らず自己流に解釈する故に誤解に終るだけである。まして感情を入れて話を開くのは、低級な人であるとの証拠でしかなく、やはりわからずじまいになるだけであるから、文証・理証・現証の三つをそろえて出されたら、あとは自分で実行する以外にないわけである。