九、なぜ本尊を拝むのか
末法の不幸な人々に、絶対無上の幸福を授け下さろうと、御本仏日蓮大聖人が、唯一無二の手段として、我々に御示し下さったので、この方法以外に、あると思うことは間違いである。道理、文証、現証に照らして他には絶対にないのである。
しかし仏法に無智な立場において、一応の理解を助ける意味でいえば、仏法というのは生命の法則ということで、一切の生命活動は十種の範疇によっているのでめる。
一つは地獄といい、煩悶懊悩する生命。
二は餓鬼といい、欲しい物が手に入らずに追つかけ廻して苦しむ生命。
三は畜生といい、愚かで、強いものにはひくつになり、弱い者には威張る生命。
四は修羅といい、ひねくれて争いを好む生命。
五は人界といい、平らかな生命。
六は天界といい、一時的の喜びの生命。
七は声聞といい、理論をもて遊び喜ぶ生命。
八は縁覚といい、一芸一能に達した生命。
九は菩薩といい、徳性を発揮して他のためにつくす生命。
十は仏といい、一切の困難を堂々と乗切って進む逞しい生命、時間空間に一切支配されない自由自在な生命、ダイヤモンドのように壊されない安心し切った生命、邪悪な世の中にいながら一切の人類の不幸を除き幸福を与えようとする清浄無比な生命。
そこで我々の生活をよくよく熟視すれば、地獄・餓鬼・畜生・修羅等の生命に終始した生活で、これは不幸である。故に無意識にせよ、幸福生活を求める我々の人生の最大目的は、十の仏の生命を日常生活に湧き立たせることなのである。
そのためには縁がなくてはできない。たとえば一枚の借金の証文で貴方の生命は地獄となるように、貴方の生命が仏の生命を湧き立たせるには、仏の生命のこめられた御本尊を拝む以外に方法はないのである。