八、信ずるということを具体的にいえば
(一)
宗教を求める人が「わかったら信じます」という人がある。「解ろう」とする態度は学問の世界であり、第三者的な真理観に立っているのである。
「信じよう」とする態度は生活であり、価値観に立って見ようとするのである。宗教観は後者の態度でなければならない。また宗教を理解させるには価値観を相手に持たせ、価値観の立場で説かなければならない。
生活は解ったら実行するのでなく、また解ってから実行したものは一つもない。すべて他人の実践を見ならってその結果を見て、自分も真似しているのである。その人を信じていっているのである。科学を重んずる我々はその便利な発明品の価値を認め、それを発明した人を信じて、生活に利用しているのである。
宗教も生活法であるからその価値を信ずる以外にない。その功徳を味わう以外にない。
子供は無智であるが母親を信ずることによって、その智慧を知ったと同じ幸福をえて安全に成長して行くのである。もし母親の意を疑ったなら、その安全な生活は保てないのはいうまでもないことである。
それと同様に我々は自分を知らない点では、仏の御智慧からみれば子供である。不幸生活を救う道は、仏の説かれる御言葉を信ずる以外にないのである。
大聖人が御義口伝(御書七二五頁)において、
「解とは智慧の異名なり信は価の如く解は宝のごとし、三世の諸仏の智慧をかうは信の一字なり」と仰せである。
我々は迷ったり不安になったりして不幸を感ずるのであるが、それは信じられるものがなくなった時にその状態が生れるのである。子供は母親がそばにいないと泣く。商売には自信が無くなれば迷う。恋人の心が信じられなくなれば不安で悲しい等々、日常に味わっていることである。
絶対に信じられる時には迷いや不安はないのである。その対象が絶対であり最高であれば安心感も絶対である。
宗教においても同様で、最高価値・最大偉力を持つ対象を求め、これを信ずる時は願わずとも大安心感が生ずるのである。しかも仏法の功徳は永遠の生命の上に立った、くずれることのない安心感に住することができるのである。
大聖人は四信五品抄(御書三四一頁)に次のごとく仰せである。
「問う其の義を知らざる人唯南無妙法蓮華経と唱うるに解義の功徳を具するや否や、答う小児乳を含むに其の味を知らざれども自然に身を益す耆婆が妙薬誰か弁えて之を服せん 水心無けれども火を消し、火物を焼く 豈 覚有らんや竜樹・天台 皆此の意なり」と。
(二)
「信じたい」とか「信じようとして信じられない」とか「それは信じていないからである」とかいう言葉をよく使うことがあるが、それでは「信ずる」ということはどういうことをいうのか。
「信ずる」ということは「疑わない」ということである。我々の日常生活がスムーズに進行している時は常に信じているということが根本的条件になっているのである。すなわち安心して寝ている時は身に危険がないと信じられるからであり、のんびりと汽車に乗っていることは目的地に対しても事故がないという点においても信じられるからである。訪問した家で出された食べ物を食ベるのも、相手の人を信ずるからである。もしこれを疑ったなら、我我は一分間でもその状態を続けられないはずである。子供は親を信じ教師を信ずるが故に成長して行くのである。
このように生活の根本は意識するとせぬとにかかわらず、すベて信ずることによって成り立っているということがわかる。「信ずる」ということが特別なことを強請するように感ずるのは誤りである。「信ずる人」と「信じられる相手」がなければ信は成立しない。ある対象が定まって、始めて信ずるとか疑うとかの第二者としての価値観が生ずるのである。しかも対象物と自分といかなる関係性、すなわち損得(美醜・利害・善悪)があるか問題である。
万事を経験をもって叩き上げた老人が、絶対の信念をもってゆるがないというのはこの例である。食ベた味、味わった苦楽は、この人の経験となって疑うことのできない現象であろう。「信じられない」ということは「疑っている」ということで、なぜ疑うかを考えれば、それはその人の経験以外の世界のことだからである。従ってこの疑問を解決すれば自然に信は生ずるのである。
宗教を信じられないのもそれであって、法力・仏力のあらわれる体験を得なければ、法の偉力を信ずるわけにはいかない。生活上にはっきりと現証が現われることによって信は生じ、またそれが重なるにつれて、一層確信となって行くのである。しかも、その実証には必らず普遍妥当性の法則が裏づけられなければならない。文証と理証と現証が一致するのは、科学生活のみに
限らず、宗教においても大切なことである。現証を信ずるのは宗教である。
盲信・迷信ということがあるが、これは一事実を直覚的認識によって信じこみ、さらに他と比較考察しそこに抽象される法則を見出さず、科学的理論を考えないのである。実証のない理論は空理空論である。理論のない実証ははなはだ危険である。こうした我々の信じ方に対して「正確なる信」「疑を含まぬ信」は、日蓮大聖人は次のごとく明示されている。
三三蔵祈雨事(御書一四六八頁)には
「日蓮仏法をこころみるに、道理と証文とにはすぎず、又道理証文よりも現証には、すぎず」また
諸法実相抄(御書一三六一頁)には
「行学の二道をはげみ侯べし、行学たへなば仏法はあるべからず、我もいたし人をも教化候へ、行学は信心よりをこるべく候」と。
(三)
今まで我々の日常生活の中から「信ずる」ということを、いろいろ考えてきたが、最後の結論として、もっとも具体的に「信ずる」ということを仏法修行の実践に立ってのベるなら、それは大御本尊に向い奉って南無妙法蓮華経と唱えることが「信ずる」ということである。「信力の故に受け念力の故に持つ」のである。
御義口伝(御書七二五頁)に
「一念三千も信の一字より起り三世諸仏の成道も信の一字より起るなり、此の信の字元品の無明を切る利剣なりその故は無疑曰信とて疑惑を断破する利剣なり」と。
本尊をあやまって口ばかり題目を唱える邪宗を信ずる者こそ、不信の徒輩であり、「不信は堕獄の因なり」と仰せである。
邪宗・謗法の輩こそ不信の徒である。