七、邪宗という意味は

 簡単にいえば正しい宗教一つを除いて、他は全部邪宗であり邪教である。釈尊云く「唯有一仏乗無二亦無三」とまた物の道理で判断すれば、それぞれ悩みや苦しみを持つ人間自体を出発点として、無上最大の幸福生活をめざすのであるから、その方法も絶対の威力ある厳密な科学的因果の理法ただ一つしかあるわけがない。

 

 無上最大への方法は唯一つあって一つに限るのである。


 なお実際問題として太陽が出れば電燈・ローソクの類が邪魔になることは衆知のはずである。よって正宗はただ一つであり、他はすべて邪宗だと判明する。


一、教義
 天造説とは神が宇宙および森羅万象を創造し、運営しているとのベる幼稚な理論を、神は全智全能だといって割きってしまう低級な宗教である。この種の代表的なものはキリスト教であり、それに古事記等の神話を混入して作った神道系統には、皇太神宮および各神社を始め天理教、金光教等非常に数が多い。
 

 次に宿命説とは、あらゆる出来ごとは運命であるからどうにも致し方ないといい、結局諦めろということにもなる消極的な教で、気休め程度にはなるが、生活に向上心がなく悲観的になり、最後は破滅の運命をも甘受せねばならぬ。権教や小乗仏教などはこれである。


 なお因果説がある、これは本来科学的に原因結果の理法に則った正しい教のことだが、今では坊主どもによって誤伝され、因縁がタタルとか、何とか因果とか、神がかり的迷信にのみ用いられている、邪宗も世とともに進歩して前記の諸説を混合しているから厄介である。


二、宗教家
 時期はずれの腐った仏教では、阿弥陀・大日・観音などの木像絵像をまつっている。これらは元来架空の存在だし、理想の象徴化されたにすぎないから、何らの威力も功徳もない。イザナギ・イザナミの命も同様、かつて実在した神神も尊敬には価するが祈願の対象ではない。


 また神の使いと称するキリストや、天理教の中山ミキ、踊る神様、お光様などは部分的感覚の異状もしくは誇大妄想等の生れ損ないであって、人を救う法などあるわけがなく宗教企業の山師どもの傀儡にすぎないことが多い。


 中でも悪質なのは戦後の混乱と世人の無智に乗じて群がり出た、南無妙法蓮華経を無断で看板にして信者の膏血をしぼるヤツだ。いばり返って尊敬され免税なのだから、横着で奸智にたけた冷血動物以外にできる芸当ではない。彼らは毒虫のように仲間の利害関係でたえず分裂しては繁殖している。


三、信者
 比較的頭の良い信者は道徳を押売りされて二重人格になる。飾りつけの大道具・小道具・鳴物入りの夢幻的ふんいきで「欲をすて、すベてに和解し怒るな、現状に満足して感謝せよ」などと聞くと、前から知っていることだから安心して賛成し実践に励むが、相変らず欲も煩悩も出てくるのは当然である。出なくなっては生きていけぬ。お釈迦様が「末法は無戒だ、もし持戒がいたらそれは悪人だ」といい残したのも知らず、腹が立っても表情はニコヤかに、他人には心にもない親切を施すていの修養の結果だんだん腹黒くなり、うわべは君子のようになる。彼らは邪宗のインチキ性を感知してそれを習い、自己の処世法に取りいれるので、やがて偽善者となり指導階級になる。


 一方素朴で無智な人は、生活に疲れ藁をもつかむ心埋で入信し、甘言と小利益に執着して熱心に唱えたり踊ったり集団狂騒的エクスタシーに没入する。悩みも苦しみもしばし忘れて紫雲の中に遊ぶ。度重なるに従って中毒症状になり、阿片のように感覚をマヒされ、倍加しつつある生活上の苦難は全然感じない。困った時には信心の中へ逃げこめば、貧乏も病気もフタをして見え
なくなる。正に忘我の境であって、自分は幸福だ、満足だ、ありがたいということになる。


 指導者は皆二重人格の紳士をよそう吸血鬼と化し、大衆は盲目・虚脱・白痴のごとく、生命力を自から進んで奉納しているのである。
 もはやその民族は滅亡するより途がない。以上、邪宗の邪宗たるゆえんを人文に関する皮相的観察に止めるが、天文地文に及ぶ害毒はとても紙面には書きつくせないのである。