五、科學と宗教とはどういう關係か
世のインテリと称する人たちは、口を揃えていう、「宗教は非科学的なり」と。しからば「科学的とは何ぞ」と反問すれば確答はない。
世の中には偶然というものがなく、すべての現象が必然であらねばならぬというのが科学の立場である。故に人智が発達しなかった時代には不思議なこと、偶然なことと考えられることが多かった。それが科学の進歩につれて、そのよって来るところ即ち因果関係がはっきりして、必然化されつつあるのである。
特に自然科学においては、近来長足の進歩をみて、分析と改造は遂に素粒子時代を生むにいたった。こうした世の中になると、いわゆる科学万能で、自転車が倒れない道理さえわからない人たちまでが「どんなことでも科学的に証明されなければ承知できない」などと、生意気なことをいうようになる。
いろいろに起きてくる生活現象、自然現象をじっと見つめ、そこに、共通する法則を見出し、その法則を用いて実験証明し、また新たに法則を見出し、その方程式を生活にとり入れて、計画的なムダのない合理化した生活をして、より高い価値を獲得しようとするのが科学的な文化生活である。
一方真の宗教とは、宇宙の根本原理を明らかに見通された聖人が「かくすればかくなる」という法則を提示され、これによって一切衆生が絶対の幸福を得られるという道を開かれたのである。だからいつ、どこで、誰にあてはめても百発百中その法則通りの生活現象が現われるものであり、しかも科学が未完成の故になお多くの偶然性を認めねばならないのに比べて、正しい宗
教は生活全般にわたって一分の例外もなく必然的となる超科学である。
科学で取り扱われる法則が眼前の事柄に限られたため、ニセ科学などというものが少いのに対して、宗教の法則は過去・現在・未来にわたる因果の法則であるために、大衆には理解しがたく、多く誤まった解釈を加えることから、種々な分派ができたり、時にはその難解を利用して、私利をむさぼるインチキ宗教屋が出たりする。
こうしてできた宗教はその根本に狂いがあるために、何らの価値もないばかりでなく、エチルアルコールとメチルアルコールの誤りをしたと同様の生活現象を起して、良民を不幸のどん底にたたき落してしまう結果となる。邪宗教と名づけるゆえんである。
ところが現今世界中に行われている宗教の九割九分九厘までが、この類であってみれば「宗教は非科学的なり」との評ももっともである。しかし真の宗教は前述のごとく完成した科学である。
科学の発達と人類の幸福を考えたときに、必ずしも併行しているとはいえない。むしろ逆行する姿が現代には見られる。それは今日の世界が科学の生み出した原水爆に恐れおののいている姿のみを見ても、十分わかることであろう。
これに反して真の宗教はその基盤を人生の幸福におく故、それが流布徹底すればするほど人類は幸福になる。世界は平和に国は栄え、個人は生命力が豊かになって、死ぬほどの苦悩も一時に消え失せてしまう。なぜにかくなるか。そこには、はっきりした科学的論拠がある。これを理解できないからといって、方程式がないとはいえない。ちようど原水爆弾の方程式が理解でき
ないからといって、これを否定することはできないと同様である。