第四章 求めている者に
一、他の宗教とどう違うか
根本の違いは本尊
およそ宗教と名のつくものには、必らず拝む対象がある。この尊敬の根本を本尊という。立て方によって、神仏、狐狸、神札の類とさまざまに異るが、何かしら崇める相手がなくては信仰は成立しない。
宗教に限らず一つの教理、学説にしても同じことがいえる。ある主義・学説の提唱者または創始者に共鳴してその主義学説を生活の信条として行動すれば、熱心であるほど指導者に近接し生活自体が創始者のそれと変らなくなってくる。たとえばマルクスを範とする者は遂にマルクスまで到達するであろうし、狐狸を拝む者は狐狸の姿を身に現じてくる。
拝む対象の影響力はこのように我々の身に重大な変化を起すのであるから、最高の幸福生活を営もうとするには、まず何をおいても信ずる対象を見極めなければならないが、他宗は崇拝の実体が確立せず、拝ませる側も拝む側も何を対象としてあがめるのか一向にわからないのが実状で、また本尊は存在しても時代によってたびたび変る宗派もある。
尊敬の対象たる本尊の種類は実にさまざまで、狐狸・蛇竜の獣類から木石・男女の陰部・火水・太陽・山岳等の自然物等驚くべき数にのぼる。
仏教中、釈尊を立てる宗派をみても、大小の釈迦やら寿量顕本の釈尊など種々雑多であり、真言宗は大日如来を、浄土宗は阿弥陀如来を、日蓮宗は釈迦の立像または日蓮大菩薩あるいは曼茶羅を仰ぐなど、みな勝手に思い思いの本尊を立てている。
いまこれらを分類すると、大体次のわくに当てはまると思う。
一、名のみあって実体のない空虚なもの、これは観念的なものであるから幽霊本尊という。
二、名もあり実体も一応整っていて、ある時代には相当の功徳もあったが、所詮末法の今日では役に立たないもの、骨董的本尊と称する。
三、本宗に伝わる末法総与の大御本尊をまねたり、一機一縁の御本尊を担ぎ出す、いわゆる付嘱のないもの。これは偽札本尊といって、これらを本尊と立てる連中は、御本尊は誰が書いてもよいなどと口走るのである。信仰がたりないからだと、何ごとも無智な信者のせいにするのもこの第三の組に属する。
要するに本宗と他宗との根本的の相違は、信仰の対象たる本尊が確立しているかいないかにあって、これがまた正宗と邪宗との相違ともなる。なぜならば、尊崇の対象が名前、実体、徳用のいずれを欠いても不完全たるを免れず、それを対象としていくら拝んだところで絶対に幸福な生活は営めず、かえって悪道におちいることは必定だからである。
妙楽大師は正境に縁すれば利益多しと仰せられ、大聖人も御遺文の中で、これを屡々引用遊ばされておるが、その反対を考えれば、慄然とせざるをえない。