三、迷いを当ててくれるから有難い
我々が毎日生活していく上には、誰しも幸福な生活を願い、不幸な生活を厭っている。しかし我々周囲の生活を見れば、殺人・強盗・生活苦など地獄の生活を送り、一方世界情勢はますます悪化し前途暗たんたるものがある。いくら一生懸命働いても、生活は苦しくなるばかり、泥沼に落ちこんだように、ずるずると不幸のどん底へ落ちてしまうのである。この不安な生活におびえ自分の力ではどうにもならないと考えた時、おぼれる者は藁をもつかむ、のたとえ通り、拝み屋さんにお伺いにいくとか易者に占ってもらい、不思議なことを現じ過去の姿をいわれ、迷いのあまりそれを信用して、あててくれたから有難いと思いこんでしまうのである。
迷いを当ててもらってどうなるであろうか。当るも八卦当らぬも八卦、雨蛙は雨の降るのを当てるし、犬は隣のオカズをかいでわかる。鼠は火災になる家には住まなくなる。
当るこ
とが有難いならこれら動物の方がはるかによく当てるではないか。気象台の天気予報も当てることが商売だ。
自分の将来のことを当ててもらったところで何になるであろう。気が狂ったような動作でお伺いする姿を見、町角に髭ボウボウとして立っている易者の姿を見る。人の迷いを当てるどころか自分の迷いを当てればよいではないか。
宿命的な人生を打破し、不幸生活を幸福生活に転換していくのが我々の願であり、誰もが望んでやまないのである。
迷いを当ててくれても何も有難くはない。医者が病気の原因を当てただけでどうなるか、その病を医学の方法によって治すことができて有難いのである。我々の不幸な生活を幸福な生活にしていく方法をもって、真の幸福生活ができてこそ真に有難いのである。