二、信仰は心が満足すればよい

 信仰はなんのためにやるのですか、と問われた時に、貴方はなんと答えますか。たいていの人は、信仰は心の慰安のためにやるとか、心の寄り所としてやるとか、信仰は生活をしていくための糧としてやるとか、というように精神的な満足を感ずればよいと単に精神修養的なものとしている。

 そうして自分の生活に必要と思う人には必要であり、必要を感じない者には必要でないという結論になるのである。
 

 なるほど信仰というものが心の満足だけを論ずるものならば、野球をやって心の満足を得、心の慰安のために囲碁をやり、華道・茶道によって精神的な満足をうることと、何ら変りがないものとなってしまう。信仰を単に趣味・娯楽としか考えないところにインチキ宗教が横こうし、無智な者をまどわし社会に対し害毒を流す結果となっている。

 故に信仰も結構であるけれどもこるといけない、さわらぬ神に崇りたしということになるのである。
 

 我々が生活していく上においては、誰しも幸福を願い不幸な生活を厭うのである。幸福な生活とはいかなる生活かといえば、利善美の価値を遺憾なく獲得し、実現しえた生活状態をいう。善の価値・利の価値・美の価値を獲得するのは、わが生命が因となつて対象が縁となり、ここに価値が生ずるのである。


 故に生命こそ根本的な因となるのである。ソクラテスが「汝自身を知れ」と喝破したごとく、自分の生命の因果を解明し、生命の実相を把握することによって、最高の価値を生み出すことができ、幸福生活へと転換するのである。
 

 十人が十人とも顔形が異るように、オギァーと生れた時、すでに邪見の家に生れ、貧賎の家に生れ、五体不満足に生れるという宿命的なものをもっている。

 

 これを宿命といってあきらめることができるであろうか。世の中がすべて宿命であり運命であるならば、努力する人がいなくなるではないか。この宿命を見つめ運命を打開していくことこそ信仰の目的であり、不幸な生活を幸福な生活へと転換していくのが信仰の目的である。

 

 このことがわかれば、精神的な満足をうるという趣味娯楽とは比較にならない重大問題が、すなわち宗教であることがわかるのである。