六、罰があるという事がわからない
一般に罰というと、神とか仏とかいうものがいて、悪いことをする者に対して、いましめをするため、すなわち罰をあてるというように考えられている。であるから我身が信仰に反対する人に対して罰が出るというと、目をつり上げて「罰を当てるような信仰ならできない」などといって、おこるのである。しかしそれは罰という意味を認識していないための誤りであって、事実はそのようなものではない。
この罰ということをごく簡単な例でいうと、ここに一つの交通法がある。この法則はたとえ知る知らないにかかわらず、信号を無視し横断した場合にはあらゆる障害がおきる。自動車にはね飛ばされるとか自動車と衝突するとか交通巡査に叱られるとかというように、この時生活上に起る損害(不幸)は「自分は田舎者で何も知らなかった」といっても絶対に、まぬかれないのである。このように損害を罰というのである。
これは特別に外界の者が罰をあてたのでもなければ作ったものでもない。法則があるにもかかわらず従わなかった故に出たもので、自分から不幸の中へ飛びこんで行ったようなものである。これは一つの例であって、この外にも我々の生活上に種々様々な法が存在する。憲法とか衛生法とかいうように、これらの法にも従わなければ、やはり前のようにそれ相当の報「罰」があるのである。
今のベたような例は生活の一部分に適応される法であり、又人がその時代時代に都合が良いように作られるものでもあるから、一度時代が変化すればその法則も変えることができる。故に反対しても、その反動(罰)というものは非常に少いのであるが、仏法は絶対の幸福をうる生活の根本法なのである。すなわち我々の生命活動の状態を完全に説き現し確立した生命観をつかむという高い教で、しかも人が作り出したものではなく元々宇宙に存在していた偉大な法であるから、これに反対した場合に起る反動(罰)は非常に大きいのである。それはちようど、ゆるやかな小川をせきとめたのと急激な流れをせきとめたのでは、その反動が全然違ってくるのと同じことである。罰のないような教では利益もあるわけがない。教が高ければ高いほど罰が大きく現われ、罰の大きいことによって利益がいかに大きいかが解るのである。