五、現在は幸福である
「現在は幸福である」という人がよくあるが、これらの人々は何をもって幸福とするかが問題である。毎日映画を見たりダンスをしたりして暮していられるから幸福だ。毎日好きな酒がのめるから幸福だ。このような人たちは、自分の好きな目先きのことだけが満足しさえすれば幸福だと思っている。又毎日そう困ったこともなく、家の中も平和で、病人もなく、私は幸福ですという人、商売繁昌していて幸福だという人などいろいろあるが、これらは又自分自身の目前の利益が満足していれば幸福だと思っている人たちである。
こういう幸福が真の幸福であろうか。
自分の好きなことが満足しさえすれば幸福だという人は、自分の好き嫌いに囚われて、生活の利害を忘れている人であって、愚かな人といわなければならない。自分の生活の利害を省みないで遊び暮していれば、その結果はいわずとも明らかであろう。好きだからといってムヤミに菓子を食べて腹をこわす子供と同様で、その時は好きなことも満足できなくなり、たちまち不幸におちてしまうことは当然である。
目前の利害が満足していればよいという人々はどうであろう。自分より金持の人を見れば羨しく思い不幸を感じるし、自分より才能ある者に対しては、自分を不幸と思う。又外界のものによっている幸福だから、それらの物にいつでも左右される。商売がいつまでうまくゆくか自分にも確信はない。健康についても同様である。こう考えればそのような幸福感はいつでもくずれてしまうはかない幸福で、それでは幸福どころか不幸ではないか。
又自分自身幸福だと思えば幸福だという人もいるが、これはただ言葉の上だけの話で、事実はちがう。悪臭を放ったくさった食物を食ベてうまいと思えば、うまいなどというのはウソである。身の上に起る悩みもみな神の試練だと思えば幸福だなどというのもこの類である。
自分の環境に幸福ありとし、又は自分の心に幸福ありとする考えから「現在は幸福だ」などといってみたところで、ほんとうの心からの幸福感はありえない。いずれもただ、自分自身の不幸にふたをして、「上を見ればきりがない。下には下がある」といった半ばあきらめの生活である。しかし事実は、あきらめ切れるものではなく、毎日の生活はそれらの不幸を打開しようと努めているではないか。
幸福というものは環境にあるのでもなければ、自分の心にあるのでもない。自分の生命自体と環境との関係にあるのだ。究極するところ自分自身の生命力の問題である。同じ一杯の飯でも、生命力の強さ弱さで、うまくもなれば、まずくもなる。身体に栄養にもなれば逆に身体を壊す原因にもなる。
好き嫌いにとらわれた幸福、目前の利害だけしか考えない幸福は、低い幸福である。美と利のみを追っている生活である。
自分だけでなく他人の利害を考える生活が善の生活である。美と利を迫うのに精一杯の弱い生命力では、他人の問題になればすぐ行きづまる。善をするつもりで悪となる。これも不幸ではないか。
又善にも大小がある。人に物を施す、あるいは自分の職業によって世の中に利益を与えるなど、みな善ではあるが小善中善であって、それで事たれりとしていたのでは、人間として最高の生命力の発動はできない。大善生活の上に立つこと自体が、最高の生命力の発動である。こうして始めて、自らの美と利の満足も確立され、自分自身の心からの幸福も確信できるのである。
この大善生活に立った生活が実現できなければ、それは真の幸福とはいえないのである。